世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「リーダーシップ」とは?

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Photo : Daisuke Muranaka ©中村ユタカ
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ここからは以下の章をお読み頂けます。

1.音楽と茶道の共通点
2.経験がないまま、世界一の指揮者養成機関へ(トップページからの続き)
3.名指揮者が生み出す「言葉のような音」
4.独自性を追い求める
5.一言で「相手」と「場の雰囲気」を変える
6.「自分のキライなところ」を探そう
7.すべての人のエネルギーを巻き込むために
8.楽器と歌手が一緒に「歌う」オーケストラ
9.音楽でボーダーレスな世界を実現する


2015年7月、英国ロンドンを本拠とするイギリス室内管弦楽団の「国際招聘指揮者」に日本人の村中大祐が就任した。
それに先立つ3月、村中は4度目となるロンドン公演を行い、英国の聴衆と批評家が彼の指揮を絶賛している。5月には、日本人のパトロンとして世界の音楽界に多大な貢献をしたチェスキーナ洋子氏(15年1月に82歳で死去)の追悼チャリティ公演に抜擢され、臨席したチャールズ英皇太子はその指揮ぶりに感嘆して、村中の自宅に賞賛の手紙を送った。
村中はかつてウィーンやローマを拠点に世界中で活躍していたが、2002年、東洋人として初めてグラインドボーン音楽祭の指揮台に立って英国デビューを飾ってからは、海外の拠点をロンドンと位置づけている。

2013年からは、音楽評論家に高い評価を受けている「オーケストラ・アフィア」(Orchester AfiA)を率いて「自然と音楽」演奏会シリーズを開催。15年のシーズンからは東京・赤坂にある紀尾井ホールを拠点に公演を行っており、12月11日(金)は「Finding Silk Road」(シルクロードへの旅)というテーマで、武満徹、ラヴェル、そしてマーラーの「大地の歌」の室内楽版新版の日本初演を行う。
「大地の歌」の室内楽版新版の演奏については、世界初録音作品として来年にも発売しようという勢いだ。また、村中はこの公演で、バイロイト音楽祭の常連歌手などを積極的に招聘するなど相当の外交手腕も見せている。
まさに今、最も熱い国際派音楽家の一人と言える彼にインタビューを行い、どんな経験を重ねて、国の違いを超えて世界の人々の心を震わせる秘訣を摑んだのかを訊いてみた。日本語を含め5ヵ国語に堪能な村中だが、「日本語で満足の行く表現ができるようになって、初めて外国語も満足に使えるようになった」と、意外にも思えることを語る。今回のインタビューではまず、その「日本語重視」の理由から聞いてみた。
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1.音楽と茶道の共通点

――国際的に活動する音楽家である村中さんが、なぜ日本語の表現を重視するのでしょうか?

村中 ただ闇雲に音を出すだけでは音楽になりませんよね。音に込められたメッセージがあって、初めて相手に「何か」がフワっと伝わるわけです。それは「自分が伝えたい思い」かもしれない。
そういったものを常日頃から自分の生活のなかで深められているかどうか。それは、海外で生活する上でとても重要なファクターだと思います。また、自分の中でいかにメッセージを育むかということも考えると、外国語教育の基礎には、日本語の極めて膨大な下地が必要だと思うのです。言葉の感覚は母国語で培われるものです。
そして「自分にとっての日本」とは何かを探ること。自分個人と日本との関係性を知っておくこと。これは時間がかかると思いますね。でも、それができ始めると、使う外国語も、不思議と豊かになってくる。つまり日本語が「自分の言葉」になっていれば、どんな国の言葉を使おうが、相手に伝わるということです。

――そういう考えは、ヨーロッパで長く留学生活と演奏活動を送っていた間に培われたのですか。

村中 私はローマに行く前、ウィーンでの6年間の留学生活を送りましたが、その間、自分の中に取り込むインプットは、ほとんどがクラシック音楽に関することばかりでした。日本人として海外で生きるとき、音楽家は外国に溶け込もうと努力し、言葉や音楽を学び、演奏しますが、そこで取り込む「西洋的な感覚」と同じくらい分厚い「何か日本的なもの」を、常に自分の中に用意する必要があることに気がつきました。
「日本的なもの」が欠如するというのは、私にとって一種の喪失感であり、危機感でした。外国の文化を取り込めば取り込むほど、自分がなくなっていくような感覚と言ったらよいのでしょうか。そこで文化庁からイタリアへ在外研修に送り出して頂いたとき、絶対にミラノではなくローマに行って、そこの日本文化会館を通じて自分の中に何か日本的なものを取り込もうと思ったのです。
これからは、自分の底辺に今まで以上に大きな「何か日本的なもの」が必要だ……。本能的にそう感じていたのです。

――そこで、イタリアで日本的なことを始めた、と。

村中 そうなんです、茶道を始めました。ローマで(笑)。
裏千家の茶室を経営する野尻命子先生が、バチカンの司祭などを含むヨーロッパの人たちに「お茶の心」を伝えておられたのです。先生に茶道を教えて頂いたときは、本当に「自分の心が定まった」瞬間だったと思います。私にとっては、日本独自の文化であり、しかも音楽の世界ともある意味で共通する言語である「茶の湯」という文化は大変大きなインプットになりました。「魂のよりどころ」とでも言うのでしょうか。
利休が説いた「茶の湯の心」とは、英語で言うserenity(安らぎ、静穏)を伝えることらしいのですが、それは作法を見せることではなく、心を伝えるものだということを知りました。毎日の生活でささくれだった心が、お茶席で座っていると落ち着いて豊かな気分になります。そういったことが大事だ、と教わりました。
そのため、茶を点てる主人は自分の心を整え、自分の心を込めて茶事を行うわけです。目には見えないメッセージがそこにあるわけで、音楽の演奏とまったく同じであると感じました。

村中の考え方は、一言で言って「自分流」だ。日本で受けた音楽教育は、3歳以降のプライベートレッスンのみ。9歳で父親が他界すると、親族からは音楽の道に進むことを猛反対され、専門的な勉強を一時は諦めていた。
ところが大学受験の浪人中、通っていた駿台予備校の英語教師に聞いた話がきっかけとなって、やはり音楽家になろうと決意。その晩、母親に土下座して、音楽の道に進ませてほしいと頼んだ。
こうして一転、音楽の専門教育を受けることになったが、そこは時間との勝負。18歳ならすでにある程度の音楽的なスキルが身に付いていなければならない。音楽家になるため村中が取った行動は、東京外国語大学でドイツ語と国際関係論を学ぶことだった。

――村中さんは18歳の浪人中に音楽家になろうと決心し、東京外語大を目指しました。どうして芸大や音大ではなかったのですか?

村中 母の声楽の師匠でもあった佐々木成子先生が、「ドイツ語をやってからドイツに音楽の勉強に行ったら?」とアドヴァイスを下さったのがきっかけです。当時の私は指揮者志望ではなく、ピアニスト志望でした。

2.経験がないまま、世界一の指揮者養成機関へ

村中 私は学生時代、日本でピアノのリサイタルを何度か開きましたが、一人でやる音楽に限界を感じていました。そんなとき、かつて浪人時代にアドヴァイスを下さった佐々木成子先生がまた「あなたはサヴァリッシュみたいな指揮者になったらどう?」と勧めてくださったのです。東京外語大の卒業前、ピアニストとしての壁にぶち当たっていた時期でしたが、それまでは、指揮者という方向性は考えもしませんでした。

――そこでピアニスト志望から大きく進路変更して、指揮者への道をスタートした、と。

村中 東京外語大を卒業した後、すぐ渡欧してウィーン国立音楽大学の指揮科に入学しました。ただ、ウィーンの指揮科に入ってからも、自分が指揮者になれるとは考えていませんでした。本当に自分がオーケストラという「集団」を指揮できるのだろうか、という逡巡があったのです。
それまで集団プレーは、サッカーやバレーボールといったスポーツでは経験していましたが、音楽の世界では、ピアノを弾くときのようにいつも一人で音と向き合っていました。音と自分の関係は、極めて個人的でナイーブなものだったんですね。おまけに一人っ子でしたから、一人でいることは得意なわけです(笑)。
ピアニストを目指していたときは、自分一人で演奏しますから、オーケストラのような集団と一緒に音楽をするなんて考えもしなかった。正直言って、苦手な分野だなあ、と。

――ウィーン国立音楽大学の指揮科と言えば、ブルーノ・ワルター、ヘルベルト・フォン・カラヤン、クラウディオ・アッバード、ニコラウス・アーノンクールらをはじめとする超一流の人材を多く輩出してきた世界トップクラスの指揮者養成機関ですが、そこへいきなり飛び込んだのですね。

村中 しかも、指揮の経験は一切ないままにウィーンに行きました(笑)。モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で入学試験を受けたんです。当時、ベートーヴェンやシューベルトの交響曲がよく課題になっていましたが、そんな交響曲の楽譜は見たこともなく、入試の前日、ウィーンのケルントナー通りの道端で、小遣い稼ぎのために弦楽器奏者がモーツァルトのこの曲を弾いていたのを聴いて、「これならやれるかも」と思った。そこでドブリンガーという楽譜屋に行って楽譜を買い、一夜漬けで勉強しました。
ところが翌日、試験場に入ったら、ピアノが2台、ピアニストが4人並んでいるじゃありませんか。指揮者の試験では通常、ピアニストを指揮するらしいのですが、私はそんな当たり前のことすら知らなかったのです。
でも、やるしかありません。曲は4拍子だから、とりあえずドイツ語で「1、2、3、4」と号令をかけたんです。すると、ピアニストは一応弾いてくれたんですが、審査員たちがドヒャーという感じで笑い出して、「こいつは面白い」と評してくれた。そんなところが外国で認めてもらえた理由だったのかもしれませんね。
当時、ウィーンの指揮科には世界中から毎年100人以上の受験者が集まっていましたが、そんな型破りな奴はきっと私くらいだったのでしょう。オリジナリティがあると評価されたのかもしれませんが、本当のところはわかりません。とにかく合格しました。
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――入学後、授業や課題は厳しかったと思いますが、つらさや悩みなどはありませんでしたか?

村中 ウィーンの指揮科に入って2年目か3年目に、大学がオペラ公演をやることになり、その指揮者に抜擢されたんです。実はそれまで、とにかく「一人の音楽」から「オーケストラ」への移行が心理的に苦しくて、かなり悩んでいました。一人でピアノを弾くのなら繊細なニュアンスを出せるのに、集団での演奏になると表現がおおざっぱになる感じがして、それが嫌でした。
ところが、そのオペラ公演を指揮したとき、「自由」を感じたんです。舞台の上で歌手が自由に動き回り、お客が笑い転げているのを見て、「あ、これは俺の天職だ!」と強く思った。そのときからです、本当に指揮者になろうと考えたのは。

それから2年後、村中はヨーロッパで数々の国際コンクールで優勝し、「新人指揮者コンクールで次々と優勝をさらっていく日本人がいる」と注目された。イタリアで指揮者としての初舞台を踏み、やがてフルトヴェングラーの流れを汲む名指揮者ペーター・マークと出会う。マークは村中の才能を当初から高く評価し、村中を最後まで自分の傍に置いて研鑽を積ませた。

3.名指揮者が生み出す「言葉のような音」

――ペーター・マーク氏は、日本でも東京都交響楽団や読売交響楽団にたびたび招かれて多くの作品を指揮した名指揮者として知られていますが、村中さんは本人に会うまで、まったくマーク氏のことを知らなかったそうですね。

村中 そうなんです。恥ずかしながら、日本ではずっとピアニストになることしか頭になく、一方、オーケストラとなると、1980年代は海外のオーケストラの演奏会が日本でも目白押しで、ほとんど在京のオーケストラの公演には行ったことがありませんでした。
マークのこともまったく不勉強で、たまたま私が優勝したコンクールの審査員長を彼が務めていたことから、出会うチャンスがあったのです。ちょうどコンクールの第二次審査の休憩中のことでした。ベートーヴェンの交響曲を指揮した後、休んでいた私のところにマークがやって来て、いきなり「お前、俺のことを知ってるか?」と訊いてきたので、正直に「知らない」と答えたら、変な顔をしていました(笑)。「俺は日本フィルをずいぶん昔から指揮しているんだぞ」なんて言ってましたね。

その後、彼がトレヴィーゾ歌劇場で指揮したモーツァルトの「魔笛」の公演を見て、本当にびっくり仰天しました。あまりに素晴らしく、ウィーン国立歌劇場などで行われているモーツァルトの演奏とはまったく方向性の違う、生き生きとした新鮮な音楽だった。音が、まるで言葉のように語りかけてきたのです。
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4.独自性を追い求める

――マーク氏の生み出す音は、そんなに他と大きく違ったわけですか。

村中 そうです。それまで音楽の都ウィーンでさえいくら探しても見つからなかったものに、トレヴィーゾのようなイタリアの田舎町で出会ったわけです。まさしく運命を感じました。

というのも、私はウィーンで音楽の基礎を徹底的に磨いていましたが、当時はまだ指揮者という存在になれるかどうか、大きな悩みを抱えていました。ピアニストとして磨いてきた「自分独自の音の追求」や、「きわめて個人的な自分を活かす意識」は、オーケストラの前に指揮者として立ったら捨てなければならないのではないか、と思っていたのです。

「自分のかなり極端な『個性』は、多様な価値観を持つ集団の前では淘汰されて受け入れられず、個性へのこだわりはいったん捨てないと、リーダーとして通用しない」という一般論に惑わされていました。

たとえば、次期ベルリン・フィルの音楽監督に就任するロシア人のキリル・ペトレンコはウィーンでの同窓で、その指揮ぶりを昔からよく見ていますが、ペトレンコはそこまで自分の「癖」に固執することなく、自分を開いて音楽を生み出す才能がありました。彼は当時からその方法で、オーケストラをすぐに自分の味方に引き寄せることができていました。

でも私は、どちらかと言えば、自分の音や音楽作り、あるいは自分自身の生き方や方向性に、すごくこだわりながら音楽をするタイプです。「人と同じでは絶対に嫌だ」という思いがあるのでしょう。でも、「下手にこだわりが強いと、多くの人の前で自分をさらけ出しても、受け入れてもらえないのではないか」という、ある意味で恐怖感がありました。

そんな私の姿勢を肯定してくれたのが、ペーター・マークでした。マークという超弩級の音楽家は、やはりあくまでも「自分の音楽や独自の生き方」を追求する人だったのです。独自性を追い求めるために、キャリアの絶頂期にすべてをキャンセルし、台湾の禅寺で2年間瞑想生活を送るという不思議なところも持ち合わせた人でした。音楽大学に行かず、チューリヒ大学で神学や哲学を修め、音楽はプライベートで学んだという点にも、私の志向と共通するものを感じました。

そして何よりペーター・マークは、もともとは大ピアニストのアルフレッド・コルトーに学んだピアニストでした。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のソリストとしてピアノの演奏をしているうちに、フルトヴェングラーその人から直接、指揮者になるよう勧められたのです。

今は他にも、ウラディーミル・アシュケナージやダニエル・バレンボイム、クリストフ・エッシェンバッハなど、ピアニストから指揮者になった人がいます。マークもまた「幼い頃から指揮者になりたくてなった」というよりは、むしろ「ピアノを通じて自分の音楽作りを経験した末に指揮台に立った」という道を歩んできたわけです。
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5.一言で「相手」と「場の雰囲気」を変える

――そのペーター・マーク氏という大指揮者と、村中さんはどんな風に一緒に活動してきたのですか。

村中 マークとの最初の仕事は、彼が指揮したビゼーの歌劇「カルメン」のアシスタントとして、トレヴィーゾ歌劇場に雇われる形で始まりました。そこから、当時パドヴァで行われていた、マーク指揮のオーケストラ・パドヴァ・エ・デル・ヴェネトのベートーヴェンの交響曲全曲録音をアシストする機会に恵まれ、またかなり頻繁に、イタリア中のオペラ座でマークのアシスタントとして仕事をすることになりました。

マーク自身もフルトヴェングラーのアシスタントだった人ですから、フルトヴェングラーのことはよく話題に上りました。フルトヴェングラーはマークが指揮したモーツァルトを高く評価していたそうです。あるときフルトヴェングラーは、マークがデュッセルドルフ歌劇場で指揮した「フィガロの結婚」の楽屋に来て、「どうやったらあんなモーツァルトができるんだ?」と尋ねてきたのだとか。

もちろんフルトヴェングラーも、20世紀を代表する指揮者の一人と言われている人です。マークによると、素晴らしい演奏を生み出したフルトヴェングラーの指揮の秘密は、「彼の眼にあった」そうです。フルトヴェングラーの眼が何より素晴らしかったと。わかるような気がします。

ペーター・マーク自身については、音楽家や歌手に対して語りかける「言葉の短さ」が印象に残っています。その言葉でなければならない一言を口にして、それによって相手をガラッと変えることのできる人でした。「後は自分で想像してみろ!」と言わんばかりのときもありました。

何かエロティックな表現が欲しいときは「カマスートラ」と言って両手を絡めてみたり、少しヴィヴィッドな音が欲しいときは「ペペロンチーノ」と言って、パスタの上に唐辛子を振りかける仕草をしたり……。それでオーケストラの人たちを半分笑わせながら、自分の欲しい音をゲットしていく。一言で雰囲気はガラリと変えてしまうんです。でも、オーケストラに対して強い態度を取ることはまったくありませんでした。

――マーク氏との出会いは、村中さんの指揮のスタイルやリーダーシップにどう影響したのでしょうか?

村中 私もすでに20年近い年月、指揮者として活動してきました。今思えば、指揮とは教わるものではなく、自分でつかみ取るべきものだとはっきり言えます。いくら偉大な先人に教わっても、その先人と同じことをやるのでは失敗してしまいます。一時的なその場しのぎはできるかもしれませんが、音楽家として舞台に立ち続けるには、まずその人独自のメッセージが必要になります。本当に「個性」を表現し尽くすことができて、初めて受け入れてもらえるのです。

しかし、人の模倣から入ると、自分を既成の枠にはめてしまうんですね。そうなると、一度はまった枠からは二度と出られない。なぜなら、常に無意識にその枠に頼るようになるからです。気がつかないうちに、その枠に自分の個性までからめとられてしまう。これはすごく難しい問題です。

昔から、「一度枠に入り、その後に枠から出ろ」といったことを日本の文化の方法論のように語る人がたくさんいました。でも、音楽に関して言えば、私はそれに賛成できません。

一度はまった枠からは出られないものです。だからこそ、最初に自分がどんな枠を構築するのかが重要になる。もちろん、私は模倣を全否定しているのではなく、模倣が必要な場合もありますが、そればかり続けていると恐ろしい弊害も招くということです。

前置きが長くなりましたが、マークが私に「指揮」について語ったことは、実は一度もありません。彼とは常に「音楽」について語り合っていたのです。フルトヴェングラーについても、もっぱら「眼の話」だけでした。具体的に指揮をすること自体の話には、私たちは二人とも興味がありませんでした。

私は何度かマークに「モーツァルトをどうやったらあなたのように演奏できるのですか?」と訊いたことがありますが、「血と肉(Fleisch und Blut)が必要だ」と常に同じ答えが返ってきたものです。まるで禅問答のようですが、そういった会話が他にも延々と続いて、私はそこから多くの学びを得たわけです。
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6.「自分のキライなところ」を探そう

――模倣によってで枠にはまってしまうということですが、実際問題として、大半の人は何かをするときに模倣から入りますよね。模倣しないというのも難しいと思いますし、はまった枠から出るのも簡単ではない。どうすればいいのでしょう?

村中 最初にはまる枠が「自分の枠」だったらよいのです。そのときに注意しなければならないのは、人間は、他人の枠ならすぐに見えるのですが、自分の枠、つまり自分の特徴や個性を見つけることには鈍感だ、という点です。

ただし、自分の個性を見つけるための、意外と即効性のある方法があります。それは、「自分のキライなところを探してみる」というやり方です。「自分のキライなところ」というのは、実は才能の温床であることが多いのですね。

私の場合、多くの人々と交流することが嫌いで、小さい頃から苦手意識を持っていました。兄弟姉妹がいなくて、一人でいることが多かったせいもありますね。ピアニストを志望した理由の一つもそこにありました。

でも、裏を返せばそれが強みになるということに、あるとき気づきました。「一人でいられる」というのは「自分の個性をはっきり打ち出せる」ということに繋がります。

一人で100人を相手にする方法は、一つではありません。一対一が得意なら、100人の一人一人をそれぞれ相手にできる方法を見つければよい訳です。宮本武蔵が『五輪書』で同じようなことを言っていたと思います。

――「自分のキライなところ」を入口にして、自分の個性を探っていくのですね。

村中 才能というのは「重い」ものです。人が抱えている悩みは、多くの場合、才能が原因で生じています。それに多くの人はなかなか気づかない。与えられた環境がつらかったり、個人として内的な悩みを抱えていたりすることも、実は、蓋を開けてみると「才能」と言えるのではないでしょうか。

また、人と比べて自分が違っているように思えるとき、多くの人が陥る罠とは「この違いは自分の人生にとってマイナスに働くのではないか」という恐れを持つことです。しかし、それは誤解です。人との違いはマイナスではなく、個性なのですね。

つまり、他人を模倣する前に、自分と他人の違いを前面に押し出すことさえできれば、一生、自分のスタイルを変えず、周囲に翻弄されることなく生きていけるはずです。その「自分の枠」を守りながら、少しずつ世間の流れに対応していくことができれば、それは最高の処世術になるでしょう。
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7.すべての人のエネルギーを巻き込むために

――指揮者にとっては、どんな「枠」が必要なのでしょうか?

村中 指揮者のようなリーダーは、自分の枠を多くの人に提供するのが仕事になります。したがって、そこに他人が入って来たとき、「息苦しさ」ではなく「自由な息吹」を感じられる場所として、自分の枠を提供できなければならない。それは「空気感」とも呼べるもので、リーダーが集団にもたらすことができる最大のものは、おそらくこの「空気感」ではないかと思います。

指揮者は自分では音を出さないので、集まってきた音楽家たちが自由に表現できる場所を確保しなければなりません。ところが、その自由な表現を邪魔し始めるのは、往々にして指揮者なのです。

指揮者が持ち、打ち出していく「枠」や方向性は、オリジナルでなければなりません。リーダー自ら「これが心底好きだ」と思うベクトルが色濃く出なければならない。そうでないと、観たり聴いたりした人も面白いと感じないでしょう。

指揮者の「枠」の中に入ってきて、力を貸してくれる音楽家という人たちがいるわけです。彼らが演奏することを楽しめる土台がなかったら、共に創り上げる意味がない。だから「空気感」が必要なんです。

この空気感は伝染します。演奏中、指揮者は、自分の前に座っているオーケストラとの間にエネルギーの渦を巻き起こします。そのエネルギーは次第に大きくなり、指揮者の背後にいる聴衆に届くと、聴衆も巻き込んで巨大な渦になります。指揮者の仕事の一番重要なポイントは、音を通じて、そのときその場に存在するすべての人のエネルギーを巻き込んで浄化し、美しい響きの中に溶け合せることができるかどうかです。

――村中さんはその後、やはり名指揮者であるクラウディオ・アッバード氏の下でも研鑽を積みました。アッバード氏からはどんな影響を受けましたか?

村中 アッバードとの個人的に出会ったのは、イタリアのフェラーラ歌劇場で行われていた「フェラーラ・ムジカ」のときでした。アッバードの考え方や方向性は、東京外語大に在学していたときから大変参考にしていました。それらは今でも私の音楽活動の根幹になっています。

アッバードはかつて、ヨーロッパ室内管弦楽団やグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラといった楽団を創設しています。これらは、若いアーティストをヨーロッパ全土から集めてオーケストラ・メーキングをする考え方に沿ったもので、アッバードのオリジナルなアイディアでした。
彼はさらに、オーケストラ・モーツァルトやルツェルン祝祭管弦楽団を作りました。これほど多くのオーケストラを創設した人も他に類を見ないのではないかと思います。

アッバードはたくさんの若手音楽家と共に成長しました。やがてベルリン・フィルの芸術監督に就任したときに、カラヤンの時代からオーケストラにいた音楽家たちに代わって、彼が育てたメンバーたちが合流したのです。カラヤン亡き後のベルリン・フィルを引き継ぎ、自ら若々しさを保ちながら新しい時代を牽引できた理由は、おそらくこのオーケストラ・メーキングにあると思います。この気運はやがてヨーロッパ連合という考えに共鳴していきます。
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若手を育てながら音楽を創り出したという点では、私のもう一人の師、ペーター・マークも尽力しています。マークはトレヴィーゾ歌劇場と提携して、このオペラ劇場を、ダ・ヴィンチやラファエッロらイタリア・ルネッサンス期の巨匠たちの「ボッテーガ」(工房)に見立て、自分というマエストロを中心に、オペラの世界における工房を作りました。そこで行われたオペラ・コンクールでは、彼のイメージする音楽の世界観が実現されていました。

私の二人の師のコンセプトに共通する点は、こういった新しいアイディアを実現する実行力と、優れた音楽に対する飽くなき追求の姿勢です。若い音楽家たちより老練達者なオーケストラと演奏する方が豊かな音楽が生まれる、と考えるのが一般論だと思いますが、それはまったく見当はずれの錯覚です。若い音楽家と接する喜びは、二人の偉大なアーティストをさらに輝かせ、演奏史に偉大な足跡を残しました。

8.楽器と歌手が一緒に「歌う」オーケストラ

――そうすると、村中さんが若い音楽家たちとOrchester AfiA(アフィア)を創り上げたのは、アッバード氏やマーク氏からの影響なのでしょうか。

村中 そうです。ただ、最初に私が試みたのは、単純にオーケストラを創設するということではなく、マークが実現した「ボッテーガ」構想のオペラという形でした。私は2005年、自分のアイディアを地元の横浜市に「横浜オペラ未来プロジェクト」として提案したところ、「開港150周年事業」として採用されました。その事業の中に、オペラのためのオーケストラを作る計画も盛り込んでいたのです。

これは、アッバードのグスタフ・マーラー・ユーゲントのようなコンセプトを、マークの「ボッテーガ」構想と融合させた形のものでした。現在、私が共に活動しているオーケストラ・アフィアはそういった影響も受けて出来上がりましたが、もちろん、私自身のオリジナルなアイディアも盛り込んでいます。

――その、村中さんが盛り込んだオリジナルのアイディアとは?

村中 私がウィーンに留学した理由を挙げればきりがないのですが、何より重要だったのは、ウィーン・フィルの響きが他のどのオーケストラとも違っていたことです。特に多くの人がご存じのニューイヤー・コンサート。あの場で描き出される音の美しさは、たとえようもないほどです。
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その響きの基礎になっているのは、「歌」の存在だと私は思っています。ウィーン・フィルは1年間で300日以上もオペラに携わっているオーケストラです。オペラを演奏するには、歌い手に息を吸わせながら、音楽を進行させねばなりません。
歌手の息継ぎのタイミングをオーケストラという集団がどうサポートするか、その知恵をウィーン・フィルのメンバーは生活の中から感じ取っています。だから、ため息が出るほど美しいタイミングを知っているのです。

私が横浜市に新しいオーケストラを提案した際、目指したのはそんな「カンタービレ」ができるオーケストラでした。指揮者と一緒にリズムを合わせて喜んでいるような軍隊調の音楽ではなく、共に楽器で「うたを歌う」ためのオーケストラです。その発展した形が、現在私が主催する「自然と音楽」演奏会シリーズで集まってきてくださる、Orchester AfiA(アフィア)のメンバーです。
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Daisuke Muranaka©中村ユタカ

このアフィアのコアメンバーの多くとは、2006年からのお付き合いになり、2016年1月でスタートから丸10年を迎えます。この間、私も彼らも互いに時を重ねて成長し、「自由」な雰囲気を楽しめる集団として、音楽を共有しています。そういった考え方を、マークやアッバードの考え方に加味してここまで来た、ということです。

9.音楽でボーダーレスな世界を実現する

――もうすぐ創設10周年を迎えるOrchestra AfiA(アフィア)の、さらに今後に向けての抱負をお聞かせください。

村中 Orchester AfiA(アフィア)と私は、2015年12月11日(金)に紀尾井ホールで「Finding Silk Road」(シルクロードへの旅)という演奏会を行います。2011年の東日本大震災以降、私たちは「自然と音楽」をテーマに演奏していますが、それに加えて今後の私たちが目指すコンセプトの一つは「ボーダーレス」なのです。

人種や民族、宗教、国の違いを超えて人々が集う社会。それを音楽を共通言語として体現するのが「オーケストラ」である、という考えに立ちます。そして、オーケストラ・アフィアはその受け皿としてどこまで機能できるかが、今後の目標となります。

江戸時代、日本では長崎の出島が海外交易の唯一の拠点でした。アフィアは、まさに出島のような場所になればよいと思っているのです。

そもそも、このアフィア(AfiA)という名称は「Accademia filarmonica international Association」の頭文字を取ったものです。「Accademia filarmonica」(アカデミア・フィラルモニカ)とは、モーツァルトの時代、つまり18世紀の半ばにボローニャで創設された世界最古の音楽組織で、モーツァルトはそこで対位法を学んだということです。また当時、彼やベートーヴェンのような作曲家が自作の演奏会を開くことを、「Akademie(アカデミー)を行う」と言いました。そのように使われていた言葉を、私たちのオーケストラの名称としています。
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――シルクロードというのは、演奏会のテーマとしてはユニークなものに思えますが、なぜこれを選んだのですか?

村中 私たちの国・日本はシルクロードの終着駅ですよね。奈良の正倉院にはシリアなどから送られてきた絹が今でも眠っていると聞きます。先日、文化勲章を受章された志村ふくみさんが、その絹を織って美智子皇后陛下に献上されたというエピソードを知って、私は心を揺さぶられました。

私たち日本人が、西洋から伝わったクラシック音楽を通じて、今度は日本を終着駅ではなく、「発信基地」としていきたいという思いから、このテーマを選んだのです。「ボーダーレスな社会であれ」というメッセージを日本から発し、それがシルクロードを西に向かうように世界全体に広げたいという思いがありました。

選んだ曲目は、すべて東洋の神秘や秘蹟がテーマです。まず、冒頭の武満徹の「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」は風の歌です。音の中から本物の風が飛び出してきます。その風に乗って舞台は童話の世界、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」へ。

マザーグースのおとぎ話には、中国の調べがふんだんに使われます。曲の中に、唐津や伊万里の磁器が表現するような色彩感が見え隠れしているのに気づくと思います。

そしてマーラーの「大地の歌」では、中国の大地が色濃く意識されます。マーラーの作品には、李白らの唐詩によるものが多いのも魅力的です。壮大な情景がドイツ語の訳文で表現される終曲では、交響曲第5番の有名なあの「アダジェット」と同じように、「時が止まる」瞬間がやって来ます。悠久の大地に広がる永遠の時を、肌で感じられる素晴らしい曲ですね。

ソリストとして、ドイツの最高峰「バイロイト音楽祭」の常連歌手であるラウラ・ニッカネン、そしてフリッツ・ブンダーリッヒの再来と絶賛されるテノール歌手のトーマス・カタヤーラを招聘しています。彼らを迎えるオーケストラ・アフィアにも日本中のまさにトップ奏者たちが顔を揃え、最高の一夜を演出してみせます。私たちと一緒に音に乗って、シルクロードからボーダーレスな世界へ向かう旅をしてみませんか。(了)

⇧村中大祐指揮Orchester AfiA「自然と音楽」シリーズVol.8よりマーラー「大地の歌」のリハーサル風景

©AfiA LLC.