「指揮者が抱く怖れとは?」

画像の説明
From:村中大祐

「先生、何故ですか?」

この言葉で私はどれだけ辛酸を舐めたことだろう。
あなたにも同じような経験があるのではないか?

理由を訊いたら相手が怒り出す経験。

わたしたちのように
普通よりちょっとだけ思慮深い人間は
疑問が湧き出てくると
「なぜ」を訊きたくなるものだ。

それを実際に言葉にするかどうか
そこは判断のしどころというわけだが。

私はこれを必ず言葉にしてきた。
そのお蔭で今があると思っている。

昔ウィーンで指揮を勉強し始めたころ
主任教授が他界されて
新任の有名指揮者が教えに来た。

彼は指揮の学生に交響曲を教える際
自分の考え通りに指揮するよう
徹底したのだった。

「この場所は少しゆっくり。」
彼がそう言えば、その音楽は
指定個所で「少しゆっくり」にしなければならない。
そういう不文律が出来上がる。

わたしはそこで質問する。

「なぜ”少しゆっくり”なのですか?」
とは訊かないで
「AではなくBではいかがでしょうか?」
と訊くのだが
それに教授は腹を立てて
私にはオーケストラを指揮する時間は
6時間待って最後の2分だった。

在学中一度も2分以上
授業でオーケストラを指揮させてもらえなかった。
理由を訊いて「ほされた」わけだ。

仕方なく2分に集中して
誰よりも成果を出せるようにした。
するとこれが功を奏して
コンクールで力を発揮することができるようになった。
私はコンクールでいくつも優勝できたのは
この時のエピソードが原因だ。

「干してくれてありがとう」
禍を転じて福と為す、
そのまさに言葉どおりの結果だった。

指揮者に一番大切なのは
「どう立つか」だ。

立ち方はいろいろ。
でも立つのはあくまで
「人の前」。

先の教授のように
自分のやり方に歯向かう人間を
押さえ付けると
決して相手は力を発揮できなくなる。
相手の自発性、つまり「ちから」を奪うからだ。

また、オーケストラという相手を
「集団」だと思った時点で
相手の他力、つまり「ちから」を得られなくなってしまう。

つまり指揮者にとっては
マインドセットが重要なのだ。

相手との関係性を構築する上で
私が心がけている大切なことがある。

自分の恐怖を相手に植えつけないこと。

実はこの教授
自分の意見以外のものは
頑として受け入れようとしなかったが
すべて厳しさや恐怖で統率しようとした。

だが誰も彼を尊敬しなかったし
彼のその考えが正しいとは思っていなかった。

実は指揮者にはいろんな「恐れ」がある。

「自分という人間が相手に
本当に受け入れてもらえるのか?」
「自分は本当にリーダーに相応しいのだろうか?」

これが最大の怖れだ。
自己評価の低い人間は、大抵ここで躓く。

指揮者の恐れが、オーケストラに伝播するのは
一瞬のことだ。
その瞬間にオーケストラは「べつもの」に変化する。
コントロールがきかなくなるのだ。

そうなった時リーダーはどう対応するか?
上から権力で押さえ付けようとする。

それを嫌がるオーケストラとの闘いとなる。

この悪循環。
どうやって打ち切るか?
あなたならどうする?
是非コメントください。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅より
村中大祐

コメント

  • 団員の思想との差をどのように埋めますか?

    アマチュアオーケストラでバイオリンを弾いているアマチュアバイオリニストです。
    今回のブログと少し関係があると思うことが最近有りました。
    現在演奏会用に練習している曲がバロック時代の曲です。
    たまたまバイオリンのレッスンでも同じ時代の作曲家の曲を練習しているのですが、レッスンで習ったこの時代の奏法をオケで使ったのですが、指揮者がその弾き方は違うと言い出したのです。
    指定された弾き方はどちらかというともう少し後の時代の曲の奏法ではないかと、思っていたのですが、その方法で弾くようにと指示されました。
    このように、指揮者が思っている奏法と、団員が思っている奏法とに差がある場合、どのように折り合いを付けていらっしゃいますか?


  • Re: 団員の思想との差をどのように埋めますか?

    >>1
    コメントをありがとうございます。
    こういう質問もどんどんして下さるとうれしいです。

    別に私は自分の意見を言うだけですから
    それが正解というわけではありませんので
    その辺りは「山登りの法則」でお願いしますね。

    すなわち、360度、頂上には入り口がある、ということです。
    人それぞれだと思いますので。

    この手のお話は、きっと以前ブログにも書いたのですが
    昔NHK交響楽団に、ウィーン・フィルのコンサートマスター出身の
    指揮者が客演したお話です。

    そこでヴァイオリンの弾き方について
    1時間あまり講義のようになったのです。

    例えばこれを一つの例とするなら
    一切リハーサルをしない場合、つまり
    もう練習なしで、ぶっつけ本番でやりましょう、
    みたいな、NHK交響楽団でもそういう場合があるとして、

    それなら、1時間ヴァイオリンの弾き方を注意することで
    効果を発揮できるはずです。

    いわゆる「選択と集中」ですな。

    でもリハーサルとは何のためにするか?

    そこで「団員との思想の差」を埋めるためにするのか?
    という命題が来ますね。

    否。

    皆に好かれる人になりたければ、そうすればよろしい。
    私はそう言いますね。

    私は別に人に好かれたくて音楽をやっているわけではないのですね。
    そこも一つの判断のファクターとなります。

    これがフラットな対人間の視座からの意見です。
    つまり自分対相手の構図です。

    でも指揮者にはもう一つ、高い位置から全体を俯瞰する視座が必要ですね。

    そして仕事術については、なるべく「かかる時間が短い方がホンモノである。」
    というのは、どんな仕事においても、ベストアンサーだと思います。

    そうすると、ヴァイオリンを舞台上で弾けないのではなく
    あえて「弾かない」人間が、
    実際にヴァイオリンについて云々するのは
    アウトソーシングしたはずなのに
    結果的には自分が弾く気になっちゃった、の図ですね。

    それはちょっと困った話になります。
    仕事を抱えてしまい、人に渡せない上司と同じですね。

    思想の共有という考え方は、極めて日本社会論的で
    私にはかなり遠い話のようにも思えます。

    指揮者というものは、時代によっての変遷があり
    今は多様性がある、と言う意味で良い時代です。

    問題は自分が「その場で何を選ぶか?」という問題になります。
    指揮者として選択したチョイスには、責任が伴います。
    これは奏者も同じことです。自分の選択に対しての責任の話ですから。

    リハーサルは「better」な状況を生み出すために時間を使う。
    私の場合はなるべく、相手のちからを利用する。
    そのために時間はかけません。

    わからない、知らない、バカなふりもします。
    わざと相手に選ばせる場合もあります。
    それで状況がベターになれば、
    その場を自分の欲しい方向へと誘導できるからです。

    明確さ、技術、全て必要ですが
    一番大切なのは、その場その場の状況判断です。

    時には知らないふりも大事です。

    そしてバロックの欺瞞について。

    ヴァイオリンの奏法。
    これについては国によって方法論が多岐に渡りますね。
    例えばオクス・ブリッジ英国型、イタリア型やオランダ型、
    ウィーン型、ドイツも様々です。フランスも違います。

    これはもう、作曲家に「どう向き合うか」が、
    作曲家それぞれについて違うからです。

    ラモーについてフランスとイギリスで考え方が違う。
    イタリア内でも、例えばヴィヴァルディの奏法について
    ミラノとヴェニスで解釈が変わる。
    ローマはコレッリの街ですが、これまた同じイタリア国内で
    ミラノとは全然大胆に奏法が変わる。

    それは全て作曲家によって、
    向き合い方が変わるから、なのではないでしょうか。

    そうすると、バロックと言ってみても
    あまりに範疇が広すぎて、もうお手上げ。
    バロックとはなんぞや?という定義から始まり
    いつからバロックが始まったのか?
    ヘンデルととバッハは同じ奏法でよいのか?とか。
    同い年ですからね。彼ら。
    ヴィヴァルディも歳が近いし。でも同じじゃない。
    色彩が違うから、奏法も変わる。

    古楽器でこうなんですから、現代楽器でやる場合
    「バロック」というどんぶり勘定の嘘は、
    やめた方が良いように思います。

    結構言いたいことを書きましたが
    いつも思っている話です。
    またいつでもコメントしてくださいね。



認証コード7218

コメントは管理者の承認後に表示されます。