指揮者の交渉術㉔「自分のことば」

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From:村中大祐

私の師匠はモーツァルトの解釈で一時代を築いた
ペーター・マークという指揮者だった。

彼の指揮した「魔笛」をイタリアで初めて聴いたとき
本当に不思議な気がした。

「ああ、私はこれを求めていたんだ。」

そう気づいた瞬間だった。

すぐさま日本の家族に電話をして
「僕がピアノで弾いていた音楽を
オーケストラで実現できる人に出会った!」

そう話したのを今でもハッキリ覚えている。

指揮者の場合、目の前に多数の音楽家が常に居て
彼らと音楽づくりをしなければならない。
そうなれば往々にして
ピアノに相対するときのような
自由な表現ができなくなるものなのだ。

ウィーンで指揮の勉強をしていたとき
沢山の指揮者や演奏に接したはずだが
そこから生まれる音楽については
正直何のエクスタシーも感じることはなかった。

それはroutineルーティーンになり果てた
殆どの指揮者の音楽のアプローチばかりが
繰り返されていくのを
毎日目の当たりにしていたからだ。

実際の仕事に結びつく手早い仕事術。
そういったものを追う人は多い。
ましてや相手のあることで
しかも相手が集団ときている。

学校と言う場所も
オーケストラのような組織と言う場所も
あくまで「手軽さや手早さ」を重視する。

出てくる音はいかにもお決まりの音だ。

バッハは宗教的、ブラームスは荘厳、ベートーヴェンは
力強い、モーツァルトはスタイリスティック。
一言で割り切れないはずの「いのちが宿る音」のはずだが
実際には一言で割り切るのが、仕事上はベストなのだ。

仕事上の効率化。
世の常とはこう言うものだ。
でも中身はゼロ。
それが現実。

だが私はそう言う考え方を常に
一度は受け入れてみることにしている。

倣うより慣れろの諺に従ってみる。
そうすると得るものも意外に多い。

でも時が経つにつれ
大抵くだらなくなって
自分の大切な居場所に戻ってしまう。

人生とはその繰り返しのような気がする

初心に戻ること。
すなわち「原点回帰」。

これは何より大切で
自分が原初的に何を求めていたか?
自分の魂が求めているものを
知る必要がある。

それがないと、色に染まっておしまい。
そこでゲームオーバーである。

私の場合、長い間の独学の期間があり
音楽を仕事にするまでに
長い葛藤の時間があったお蔭で
どんな場合でも、どんな場所でも
自分の原点を常に意識することになった。

だから人のやり方に倣う場合でも
常に自分のポジションはハッキリしていて
いつでも其処に戻ることができる。

オーケストラは集団で、
指揮者は音楽をする際には
沢山の人間が常に目の前に居る。

そのとき自分が原初的に思っていた
「あの」音楽へのアプローチは
「群集心理」の中で否定されることが殆どだ。

イタリアで私が見つけた心の在り方とは
そう言った群集心理で手垢にまみれた場所へ
ドーンと自分の足跡を刻印することを
まずは自分に許してやる、ということ。

Si lascia un'impronta personale
自分の刻印を残す。

音楽ではアクセントひとつで
それが可能になることを教えてくれたのが
師匠のマークだった。

そのアクセントの効能を理解するためには
多言語の習得が必要だ、ということを知る人は
この日本にどの位いるだろうか?

私はマークとはドイツ語で話すのが常だったが
もちろんイタリアで日本人とスイス人がドイツ語で
会話をする様子に、周りの人達はかなり面食らっていた。
だがマークの話す言葉はそれだけにとどまらない。
ある日はフランス語で、またある時はスイス方言で。
英語やスペイン語に付き合うこともある。

内容は極めて形而上学的だったりする。
相手は神学者の息子だ。
禅の修行のために
2年以上東洋で山籠もりをしていたタイプなのだ。

私はイタリア語やドイツ語といった言葉が
少しずつできるようになって行く過程で
モーツァルトについて
世界最高と言われる指揮者に出会うことができた。

それが絶妙のタイミングだったわけで、
お蔭で言語と音楽の結びつきについて
その重要性を理解できるようになった。

イタリア語やドイツ語といった言葉が身に付くうちに
自分の音楽の語法が変わって来たからだ。

多言語を習得するうちに
やっと見えてくることもある。

私の知る限り、世界の音楽家はみな
5つや6つの言語はできて当たり前だが、
なぜ彼らが伝統的に多言語を習得しようとするのか?
その理由が少なからず理解できるようになった。

これも倣うより慣れろで
まずはやってみないと
わからないものだ。

幸いなことに音楽家になることの選択肢として
近年東京外語大に来る人が増えている事実は
非常に喜ばしいことだ。

そう言うやり方もある、ということ。

でもそれは沢山ある方法のうちの
一つの可能性でしかない。

そこで私から言えることはひとつだけ。

多言語を習得しようとする人達に
あるいは外国語をマスターしようとする人に
私からひとつだけ言いたいことがある。

それは「すべては日本語の能力次第」ということ。
そして「自分のことば」を持つことが重要だ、ということ。

言葉とは考える手段でしかないのは事実だが
さりとて人間の考えとは
言葉によって支配されてしまうのだ。

同じ言葉でも、その言葉の選び方によって
頭のなかは、まるっきり違う考えとなる。

だから出来合いの「人の言葉」は使いものにならず
あくまでもオーダーメイドの
「自分のことば」を生み出すことが必要なのだ。

それには私が最初に述べた
「自分独自のポジション」
すなわち初心、原点といったものを
日本語という母国語によって
「自分なりの感覚で」
捉えておくことが必要になってくる。

さもないと外国語習得のプロセスにおいて
他人の言葉で自分の頭が占領されていく。

やがては自分自身が誰なのか?が
段々わからなくなっていくのだ。

それは個人としての自分が
集団というオーケストラの前で
自分の方法論を失うことに等しい。

常に自分の秘密基地に返れるようにしておくこと。
それが何よりも大切なのだ。

あなたは「自分だけの言葉」を持っていますか?
あなたにその意識はありますか?

誰にも流されることのない
自分の言葉をもつこと。

それがこれからの国際社会での生き方を
指し示す道標となるはずである。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

コメント

  • 貪欲な読書、、、

    教科書の丸暗記の競争、小学校ではやってました。議論や討論では、相手との読書量の差が、ここにある!を感じますね、、、。



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