指揮者になる法⑤「嘘と純度の物語り」

画像の説明

From:村中大祐

人前で話すことのある人なら
お分かりだと思うが
本当のことを言わないと人には何も伝わらない。

言葉を尽くしても、ウソはダメだ。
全てがお見通しとなるからだ。

指揮者の場合、やはり嘘は通用しない。
なぜなら身体が全てを物語る。

音楽が表現するものと向かい合っていれば
つまり、自分のなかで準備ができていれば
そういった音になるのが音楽というもの。

準備ができていないなら
本来立てない場所が指揮台である。

しかしながら準備はいつまでたっても
終わらないのが準備というもの。
そしてこの「自分なりの」準備ができるようになって
初めて一人前と言えるようになる。

何を表現したいのか?
何を伝えたいのか?
それが自分なりに答えとして
導き出せている必要がある。

そうでないと、人には伝わらない。

仮に其処で自分を誤魔化してみるとしよう。
準備が徹底的にできていないのに
沢山の音楽家の前に立った時
自分ができていない、という意識が巻き起こす
罪悪感とは、なんとも恐ろしいものだ。

何とも恐ろしいのは
全体の空気感が全く変わるということ。

準備ができているなら、自分の意識がしっかりして
「気」が途絶えることはない。
だが自分を誤魔化していると
この「気」が乱れるのは明白なのだ。

私たち指揮者にとって、この「気」こそが
何より大切なのだ。
この「気」の流れを、ある意味音楽と呼ぶこともできる。

瞑想をしたことのある人ならわかるかもしれないが
瞑想によって、人はある一定の催眠状態に入ることができる。

音楽に集中したとき
音楽家はひょっとしたら
全体のエネルギーバランスが整った条件下では
この瞑想と同じような状態に入るのだろう。

そのエネルギーバランスは
音楽家の集中によって創り上げられる。

私はその集中を出来る限り「散らす」ことで
豊かな音楽を生みだそうとする。

陰陽の世界で言うなら
集中が陰で、弛緩が陽だ。

「本当の集中」というのはある意味俯瞰的であり
極度の緊張とは真逆なのだ。

その緊張した音を散らすことによって
音のスペクトルムを生み出し
色やカンタービレを創り出す。

自分が準備万端で、自分自身から自由にならなければ
この「散らす」作業ができなくなる。

私から見ると、
多くの指揮者は「散らす」ことをしないか
そういう感覚を「知らない」みたいに見える。

それはあくまで個人的な音楽とのかかわり方の違いで
ああだ、こうだと言うものではない。
私なりの方法論はこんな感じだ。

とにかく、人前で嘘をつかなくて済むように
準備を整え、舞台で自由になることが
何より重要だと思っている。

嘘は身体から見てとれる。
自分に染みついた嘘ほど恐ろしいものはない。

自分の純度はいのちである。
自分の純度をどうやって守り切るか?
これはまさに自分との闘いである。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

コメント


認証コード7237

コメントは管理者の承認後に表示されます。