指揮者になる法⑨「ユニークであること」

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From:村中大祐

指揮者になるにはどうしたらよいか?

これについて話をしてみようと思う。
もちろん私の個人的な体験談だから
十人十色、それぞれのやり方があると思う。

わたしは中学生のころから
ピアノを仕事にするつもりで勉強を進めていた。

大学浪人の暑い夏に駿台予備校の夏期講習で
「男なら好きなことをやれい」と言う言葉を聞いて
本格的に音楽を仕事にすることを決めたその日から
22歳でウィーンに渡るその時まで、
ただの一度も指揮の勉強など
満足にしたこともなかった人間である。

私ほど無茶苦茶な始め方をした人間は
多分日本では居ないと思う。

だが、今でもそのやり方こそが
正解だったと確信している。

私はいきなりウィーンで指揮の勉強を始めたが
最初の2年は指揮者になれるとも
正直思えなかった。

その理由は「違和感」だった。

一人でピアノに向かって創り上げた音が
オーケストラの前では
全く違ったものに感じられる。

その違和感は想像を絶するものだった。

でも考えてみて欲しい。
もし私が感性が鈍ければ
この違和感はあまり感じずに済んだはずなのだ。

言われた通りに「こういうもんだ」と
指揮を続けたに違いない。

だが私の感性は、
一般に音の違いに無頓着な人とは
違ったということだ。

もっと言えば、それくらい「自分の音」や
「自分の世界」を大事に考えていた、ということになる。

「Unique ユニーク」という言葉がある。

昨日も語ったのだが、自分というフィルターを通じて
立っている指揮者の色に全体の音が染まるとき
そのユニークさは最高度に発揮される。

ユニークとは「行動」ではなく「存在」なのだ。
唯一無二の存在になるにはどうするか?

いや、どうもしなくていい。
あなたは既に生まれた時から
唯一無二の存在「だった」はずだ。

つまり物事の習得の仕方に
成功の全てがかかっていると
そう私は思っているわけだ。

確かにマニュアルといった方法論を学ぶことは重要だ。
でも行き過ぎに気が付かないのが日本人の弱み。

私が昔ピアノを弾いていた頃は
音楽家の友人など一人もいない環境で
周囲は皆、音楽とは別の世界に興味を持った人達だった。

そんな中に一人だけ、ピアニストを志している人がいて
興味を持って話を聞いてみた。

するとこんな答えが返って来た。

「先生の指使いや弾き方を自分の楽譜に書き込んで
それを言う通りに演奏しないとダメなんだ。
音楽学校にも入れてもらえない。」

もし仮に日本の音楽学校が
本当にそんなことを生徒にやらせているなら
日本で勉強するのは今すぐに考え直した方がいい。

多分これは極端な例だろうとは思うし、
一般にはこのようでないことを望むが

そのピアノの生徒さんを例にとるならば
「自分で考える」習慣や方法論、
自分なりのシステムを構築する時間がないままに
学校を卒業しなければならなくなるのだ。

つまり、学校の先生と一緒に居るうちは
先生のコピー以外は全く身に付かないことになる。

そうなると、先生のコピーが出来上がれば
彼らが教える側に回ると、
以後は更なるコピーが生まれるだけ。

仮に音楽を山登りに例えるなら
山の頂上は一つでも
そこへのアプローチの仕方
すなわち山の登り方は沢山あるはず。

登り方を工夫するってことは
自分の頭や感覚を使って
自分なりの方法論を確立することだ。

その山登りの途中で、人の物まねをしているようでは
いつ自分のやり方を見つけるというのか。

仮に自分が本当に心酔する相手と
assimilate同化するなら
話はわかる。

でも心酔する相手をいずれは
超えなければならなくなる。

その時にコピーの手法だけでは
師を超えられなくなる。

つまり師を超える方法論とは
「自分を探す」以外にないわけだ。

コピーを続けて、Aのコピー、それが終われば
Bのコピーをする。これが続くと
コピーの方法論しか身に付かない。

だからなるべく早く「自分の方法を探す」こと。
自分の山登りを360度ある麓の
どこから始めるか?

それを決めるのはすべて「自分」だ。

私の場合は運よく
最初に自分のやり方を見つけることができた。
でもこれは偶然でしかない。

音楽を仕事にすることを反対されたお蔭で
自分が心酔する人以外の「先生」からは
教えを乞うことが物理的にはできなかった。

だからもっぱらサンプルとして
あらゆる音楽家の録音を聴き漁り
その中から自分が目指す方向を特定していった。

だから人のコピーは物理的に無理でも
人から方法を借りたり、
盗んだりしてきたわけだ。

でも決してコピーの相手に染まることはなかった。
それは具体的な方法については
「自分自身」の頭で考えるしかなかったからだ。

自分が感じる「違和感」。

これは自分が自分である証拠だ。
多くの日本人はこの違和感を打ち消しながら
思いなおしをしながら仕事をしていると思う。

先生に「なぜ?」と訊くのは
失礼だからやめたりする。

だが本当に必要なのは
違和感を宝に変えることだと思う。
これすなわち、自分自身の感性を宝に変えること。

私が感じた音への「違和感」。
それは私が必要とする音ではないということ。

何か自由が足りない。
何か繊細さや、色彩感が足りない。

オーケストラの演奏には何故「自分の音」みたいな
演奏家特有の音感覚がないのか?

集団で演奏することの意味は?
なぜ皆が音を揃えなければならないのか?

そういったことも最初のうちは
大きな違和感となって押し寄せて来た。

私はそう言った違和感を、すべて一つ一つ
自分なりの方法で解決してきた。

そして今手元に残っているものは
この「自分で解決した」ものだけだ。
これが「わたしの音楽」なのだ。

人から盗んだものは自分の一部になり
人のものであったという認識はない。

教わったことも、ある意味どこかに消えてなくなった。
必要なかったことが殆どだったかもしれない。

つまり自分に残すべきものは
自分の身体ひとつである、ということ。

ここで再度問いたいと思う。

指揮者になるにはどうしたらよいか?

自分に嘘をつかないこと。
自分の感性を信じること。
自分の違和感を信じること。

生まれたときからのユニークな自分を認め
そこにある弱みも強みも
全ての自分を受け入れること。

つまり
「裸で立てるようになること」
だと思っている。

今日も素敵な一日を。
横浜の自宅から
村中大祐

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