ご縁のありがたさ – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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人に何かを頼むとき
私は最近目の前にいる人に

なるべく早くお願いすることにしているが、

それはどうやら

私にとっての一番「良い答え」を与えてくれていることに

何となく気がつくようになって来た。

効率を考えれば、調べてもっと良いと思われる方に

お願いするべきかもしれないが、

目の前にいる方がチカラを発揮する瞬間や、

その笑顔に充たされているのは、

逆に自分なのだと、気がついたのだ。

目の前の人に仕事をお願いできて、

気ごころが知れている方にお願いできて、

安心を得ているのはこの私だ。

ご縁を頂く醍醐味とは、

そのご縁の輪の中に入って来て下さる方々が

笑顔になることなのだ。

その笑顔に幸せを感じて、

自分が豊かにしていただけることなのだ。

すべて必要なものは与えられている。

探せば見つかるはず。

灯台下暗し。

目の前にある宝を

見過ごしてはいないか?

そんな毎日の小さな気づきにも、

大きなご褒美となる芽[クローバー]が備わっているのを感じられて、

今日も嬉しい朝が来た!

おはようございます。

今日もステキな1日を!

写真は葉山の森戸海岸からのもの。

横浜の自宅から

村中大祐

追伸:

http://afia.info

CD[CD]発売日は3月3日となりました。

先行予約がスタートしています。

cd@afia.infoまでメールお待ちしています。

自動返信メールから公開ビデオを

ご覧ください。

CDの特典についてお話しています。

音楽を聴いて元気になる方法 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

「作曲家の魂にふれる思いがする」

「まるで応援歌のような」

そんな昨年2016年5月12日の演奏会の録音がデジタルリマスタライズされて

村中大祐指揮Orchester AfiAの第二弾CDとなりました!

「まるで自分が応援されているような、応援歌のような交響曲だと思う。」(40歳経営者)

「音楽は本当に生きているのだと言うことが分かる。」

「今日は、メンデルスゾーンやシューマンの血の通った姿や心情が垣間見えたような気がする。」(60歳会社員)

「普段、オーケストラの定期演奏会や海外のオーケストラの来日公演をたくさん聴いてはいるが、演奏自体は素晴らしくても、作曲家の魂に触れる思いがすることは滅多にない。」(55歳広告デザイナー)

Orchester AfiA 第ニ弾CD

2017年3月3日発売に向け予約販売開始!!!

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この度、Orchester AfiAによる第二弾CDの発売が決定いたしました。

これに伴いましてAfiA Officeでは、

2月6日より予約販売を開始しております。

収録曲:メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」&交響曲第5番「宗教改革」

指揮:村中大祐

演奏:Orchestra AfiA

税込¥3888+送料¥300

このメッセージを受け取った貴方には

素敵な特典をご用意いたしました。

*このCDのために書き下ろした絶対法則

*上記の5月12日公演のリハーサルの映像

現在アマゾンでもあと2点のみとなった

村中大祐指揮Orchester AfiAの

第一弾CD(税込3,888円)と第二弾CDを

今回併せてお買い求めになりますと

3,888円+3,888円=7,776円[→]6,900円

小冊子「CDの絶対法則その1」

小冊子「CDの絶対法則その2」

に加えて

2017年度「茶会」

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但し2月末日〆切先着30名様のみ

とさせていただきます。

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「えるしー」が奏でる「つながりおやつ」:横田美宝子さんの話を聞いてきた – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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ご縁というのは不思議なもの。
そんなひょんなご縁から、
マナーのプロ杉本さんを通じて
ことづくりのプロ中馬さんをご紹介いただき
その中馬さんが横田さんを紹介してくださった。

ご縁つなぎはリレーのようなもの。
互いにどうなるかわからない賭けのようなもの。
でも波長がうまく合うと、不思議な化学反応が起こる。

AfiAの演奏会を通じて多くの方にお世話になっていて
多くの励ましを頂き、それをちからに変え乍ら
何とか前に進んでいる毎日だが、
ご縁に感謝をして、ひとつひとつを大切に見て行くと
何か大きなご褒美を頂くこともある。

杉本さんと中馬さんには御礼を言いたいと思う。
ご紹介、ありがとうございました!

さて。。。

横田さんが経営されている3pm(さんじ)という組織。
ケータリングで初めてお目にかかったとき
色が気になる食事のケータリングだったように記憶する。

確かに色が気になる。
そしてカタチも気になるのが横田流。
でもそんな横田さんの思いは、もっと大きなものだった。

葉山の「えるしー」という、自分の持つ得意分野を持ち寄れば
ひとつの全体を大きく引き上げる会社を訪れたのは1か月ほど前のこと。

多分わたしと同じように
自分のこだわりを追求しようとしても
なかなかそのこだわりを認めてもらえる場所がなかった人達が働く工房だ。

ここは、いわゆる社会福祉法人。
ここで働くひとたちは
多分普通のひとにはない才能(ギフト)を沢山持っているのだろうが

なかなか一般には理解されなくて
うまく社会と適応できずにいたりするのかもしれないが
この組織では、そういった「ギフト」を自分流に活かして
毎日の喜びに変える術を見つけているように見えた。
そんなヴァイブレーションが極めて高い「場」が葉山にはあるのだ。

私たちはその場所を見学させて頂いたとき本当に驚いたのは
半時ほどで自分たちの魂が浄化されていたことだった。
ちょうど素晴らしい音楽を聴いて感動したときの感覚と同じ。
その場に居合わせた人達が、みな不思議な意識の調和に満たされる。

そんな場の形成は、なかなかできない。
ある意味特殊な才能だと思う。
これはまさに「ギフト」なのだろう。

一心不乱に自分のできることを持ち寄った結果
その素直な魂たちが起こす奇跡は
観る者の魂まで癒してしまう。

もう一つの横田さんの驚きは
お食事の薬膳的組み合わせにあった。

夏に3pmに伺い、お仲間とお食事に伺ったとき
ちょうど体調が悪かったのが
食後に元気を回復。それがターニングポイントとなって
翌日から調子が上向きに。

これもまた、横田マジック。

「素材を組み合わせる」
それは共同作業で必要なこと。
でも「What for(なんのために)」があるかないかでは、全然違うと思う。

「何一つ無駄なものはない。この世のすべては大切なもの。」

そうおっしゃる横田さんの言葉はとても強い思いに満ちている。
一見「やさしさ」の環境であるはずなのに、大変厳しい視点がある。それはご自分のこれまでの職業的な経験、広告デザイナーとしての知見によって養われた厳しさだ。

でもじっと見ていると、一切の妥協はないはずなのに、その厳しさの中から優しさがあふれ出る。

「人の気持ちも大地も操作をしない」

これまで散々ご自身の体験のなかで、大地も人も、操作をする環境に身を置いてきたなかで、例えば色を揃えるために、旬ではない食べ物を使ったりしたこともあったという。それを一切やめたそうだ。

そうすると「ない中で工夫する智慧」が生まれるという。
全部無理して揃えようとしなくても、必要なものはすべて与えられている。状況を操作することはない。

探せば、そこにすべて与えられているのだ。
だから旬のものを使いながら、足りないと思われたら
工夫してみるそうだ。そうすると新たな発見が生まれたりする。

そんな話、私は大好きだ。

また、極めて印象に残ったのは

「異なる価値観は存在する」
「それを理解しようとしたり、理解されようとするのをやめた」

という言葉。

まずは相手との違いを受け入れること。
そこから互いに「寄り添う」という発想が生まれていた。

どこからが横田さんの言葉で、自分の言葉なのか
書いているとわからなくなりそうだが

そのくらい「うなずける」話に溢れた楽しい2時間だった。

私の仕事についての考え方 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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音楽家は見えない世界にアクセスすることができる。

昔よく朝礼で言われていた「想像力」ってやつを使うわけだ。

でもこの「想像力」って言葉、最近とんと聞かれなくなった。

昔は当たり前のように、この「見えないちから」を大切にする習慣があった。

もちろんエネルギーだって見える感じがするし、

相手の思いについても、指揮者だとオーケストラの人が何を思っているか

何となく分かったりする。

でも、それは別に難しい話じゃない。特殊でもない。

日本人にとっては、至極当然の、当たり前のことだったはずだ。

でもコンピュータの発達だか何だか知らないが

この「想像力」っていう「見えないツール」を使うことが

何だか凄く特殊に思えて来た。

なぜだろう。

楽譜があっても、実は音を出さないというか、

出せない指揮者だから思う事だろうけれど

演奏会の曲の準備をするとき、最近は殆ど音を出さなくなったように思う。

まるで本を読むように楽譜を書棚から引っ張り出し、

頭のなかで、自分の音にまつわる感情や思いを明確にして

オーケストラの前に立つことが殆どだ。

その準備期間には、昔だったら真っ先に聴いたはずの録音も、

まったく聴かなくなった。何千枚もあるCDが泣いている。

全く音というものを出さず

出すとすれば頭の中だけでガンガン鳴らす。

そんな私を家族は不思議そうに眺めてる。

横で見ている愛犬は、私が発狂したかと思って眺めているのではないか。

そんな風に感じるくらい、私の準備作業たるや、音がまったく出ない。

分からなくなると、もちろんピアノに座り、一通り弾いてみたりする。

でも大切なのは「何を弾くか」じゃなく「何を聴くか」でもなく

そこに「何を見るか」。

弾いていると残念ながら見えてこないものが多すぎるから、

楽譜を置いて、ただ頭のなかで夢想し、音を鳴らし、

ただひたすら「見る」作業をするのだ。

そうすると色々なものが見えてくる。

街とか自然。情景とか感情とか。

時には農夫たちが小躍りするような場面も見えたりする。

大抵一人の作曲家について書かれた文献を20冊くらいは用意していて

(なんて言いながらラフマニノフやシベリウス、スクリャービンなんて、

昔は殆ど書籍がなかったけれど、最近は随分増えたからありがたい。)

そういうのを読みながら、基本は自分でプログラムノーツを書き

絶対法則なんてのを作って、お客さまにお送りしたりする。

でも全ては「見えないもの」を、会場で「見てもらう」ためにやっていること。

感じて欲しいから。でももっと言えば、幸せになってほしいから。

書き終わった後は、2日くらいの練習、多いときでも3日の練習。

イギリスなんて1日の練習で本番。

じゃあどうやって練習するのか。

楽譜に見つけて来た私の「宝物」を、オーケストラの前に体ごと持って行き

何も言わずに自分が「見たいもの」を見るべく音楽を始める。それだけ。

講釈は一切なし。まずピアノを弾くように音を出すことから始める。

そうすると空間が響き始める。

気が付く人も、気が付かない人もいる。

でもAfiAの人達はアンテナがスゴイから、何か感じるのかもしれない。

そう思いたい。でも語ったりはしない。

そんなオーケストラの仲間から見えてくるものがある。

それは波動。あるいはバイブレーション。

別に怪しいイカサマを言っているつもりはない。

バイブレーションの高いものがくれば良し。

低いものなら改善する。そこで初めて語ることにする。

それは全てが自分の思った通りでなくていい。

目の前で演奏をしてくれる仲間がいて、彼らが持ち寄った宝物がある。

そんな彼らがくれるものの中から、飛び出して出てくるものも、

自分の当初のヴィジョンと一緒に、重ね合わせて見ながら、考えたりもする。

でも怖いのは、考えたりしていると、彼らから文句が出てくるわけ。

だから家で楽譜を置いているときに、自分の仕事、つまり考える作業は終わらせておく。

そうすると、彼らの前では考えずに始めることができて、

ある意味「無心」に近い状態、つまり「状況を受け入れる」だけになる。

そうやって彼らが出してくれる音を受け止めながら、

ある一つの世界観が生み出されていく。

すべては按配の世界。

でもそれでいい。

場の共有から生まれる真・善・美。

そこに様々な色付けがされるが

自分があらかじめ楽譜から喝破した世界と違ってくれば、

手直しはただひたすら、音楽用語で行う。

基本フォルテとかピアノ、もう少し長めに、とか言うだけ。

理屈なし。でもイメージはたまに伝える。そうするとガラッと変わる。

だから面白いなあ、と思う。

でも言葉で伝えると、前に居る仲間の音の生気というか、

「たましい」みたいなものが失われることも多い。

指揮者が指摘したせいで、ドツボにはまることが多い。

だから慎重に言葉は選んで、なるべく遠まわしに言う。

そういう意味では、私の言葉は分かる人には分かるが、

分からない人には分からない。

でも分からないと、仲間があちらから近づいて来てくれたりする。

それもまた、嬉しい。

でもおそらくだけれど、あまり分からない方が、相手の力が発揮される。

でも相手は私がそう考えていることを知らない。

それでも協力してくれる人達が居ることを

私は誇りに思うし、幸せに思っている。

そうやって今までやってきた。

これは私の矜持みたいなものだった。

これをやると、外国では当たり前のように受け入れてもらえた。

というか、そういうやり方を師から学んだように記憶する。

私はある時期までコンクールを随分受けて来た。

それなりに賞も頂いて、頭にのっていたが

結局イタリアの劇場で修行が始まると

指揮者に必要なものが何なのか?正直わからなくなったことがある。

非常に恵まれた環境だった。

まだ往年の歌手たちが舞台で残って獅子奮迅の活躍をしていた90年代。

いろんな人たちに会ったが、皆同じ「におい」を持っていた。

それは今思えば、芸術という、あるいは音楽という

「わからない」ものへの敬意だったように思う。

ギリシャ的な哲学や美学の前提となる真善美を云々する前に

心得事として覚えておかねばならない、

極めて大切な条件があるように思う。

それはソクラテスの言った「無知の知」である。

わからないもの。つまり真理。

真理の前には畏敬の念を持つべし。

私はノーベル賞を取った人達に共通する意識だと思う。

私たち日本人は、すごく一生懸命な国民だから

みんなで自分や周りに厳しくし過ぎるきらいがある。

そんなとき、ゆるーい枠組みを作っておくといいかもしれない。

私が日本に帰ってきたとき感じたのは、厳しさ。

でもそれが何か新しい価値や、優れた場を生み出すとは

到底思えなかったし、今でもそれは繰り返されていると思う。

例を挙げればきりがないくらい、毎日毎日ひとの厳しさが招く矛盾が表面化している。

そのためには、新しい空間や場、価値をもたらす活動が必要で、

それを続けるためには勇気と智慧、そしてもちろんお金も必要だ。

そして協力してくれる人達に恵まれることは更に重要。

2011年以降、震災による価値観の転換が日本を中心に起こったのは

偶然じゃない。

そこに意味を見出しながら歩いていくと、

同じ考えの人達にずいぶんと沢山出会うことができた。

皆が自分のミッションを考え始め、

家族を大事にし、感謝をし、

そして地球に住む人が全て繋がっていて

みんなで互いを大切にし合う意識が

突然表面化してきたように見える。

A.I.が出てきて仕事がなくなるとか言う人が多いなかで

私が仕事について思うのは、

皆がそれぞれに果たすべき役割を持って生まれてきていて

その役目に気が付くチャンスが遂に来たということだと思う。

テロや自然災害の意味。

技術力の発展の意味。

地球温暖化の意味。

そして自分の存在の意味。

そういったものが、毎日の生活の中でクリアになってくると

仕事の質や目的が変化してくる。

目の前で完璧を目指す、と人は言うが

「何のために完璧を目指すのか?」を問う人は少ない。

完璧はわかりやすい。

でも完璧では不完全なのだ。

自分を出て空に飛べ。

空から自分を見てみろ。

そうすれば、自分の立ち位置も見えてくるはずだ。

そんな自戒を込めたお話。

音楽家の役割について考えてみた – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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今日は音楽をする人の役割について話そうと思う。

あくまでも私見だから、気楽に聴いてほしい。

ひょっとしたら他の分野でも同じことが言えると思うから

自分の分野でも同じなら、コメントを残していって欲しい。

音楽に関わる人、特にシンガーソングライターではなく

作曲家でもなく、書かれた曲を再現する「演奏家」ってなんだろう。

自分の曲じゃないのに、人が作った曲を演奏して

お客さんの心に何かを伝えることができるって

凄いじゃないか。

人が演奏をするとき、何がおこるか?

書かれた曲が放っている光を見つけることから始まる旅。

その光を自分の鏡に映して

お客さんの心に届けるのがお役目。

自分の鏡が曇っていると、お客さんが作品の正体をつかめない。

だからこの仕事は怖い。

よく無私でなきゃならない、とか言う人がいる。

そういう人には「お前がやってみろ!」と言いたい。

無私なんてものには意味がない。

仮に意味があったとしても、言葉で云々するようなもんじゃない。

自分がハッキリしてきて、初めて鏡を磨くことができるのだから。

無私ってのは、その先の話だろ?

自分が何者か。何を目的に生まれてきたのか。それを知ること。

そして思う存分自分を自由にし、鏡を磨く。

自分が自由になると、鏡は美しく輝く。

その鏡の輝きに、自分が喝破した本質を照らして

人々に伝えるのが役目。

音楽って目に見えないから、それができる。

音楽家ってスゴイと思う。

だから、そのスゴイところをもっと見てほしい。

言葉で伝えようと思って書いているけれど、

本当は見えない世界を感じて欲しい。

その見えない世界を理解し、共有するために、

私たち音楽家が存在しているのだから。

2017年に思うこと – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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私は昔から自分に数多くの問題があることを、かなりハッキリと認識していました。そして、それを克服することこそが、実は幸せへの道でした。

ですから理論的には、自分の問題を認識出来ない人は、残念ですが、本当の幸せをまだ感じられていない、ということになります。

これから書くことは、あくまで私の勝手な意見ですから、あまり気にしないでくださいね。

例えば私の顔は、右と左がズレてます。歪んでいますが、それに気づく方や気づかない方もおられます。自分を受け入れるプロセスの中で、私はこの歪み自体の価値や意味に気付きました。鏡に映る自分自身の姿の、分かりやすい例と言えますね。

目はコンタクトレンズを外すとほとんど見えません。(-14.5のレンズを使っています。)ビックリするほど目が悪く、子供の頃は斜視。でもそれも外的な問題です。

目が見えづらいから耳で判断する能力が発展しましたから、障害とは才能の起爆剤となる一つの例でもありますね。

実は私には、もっと内的な問題が山のように存在しました。小さい頃から人と上手くコミュニケーションを取ることができなかったのです。

小さい頃から物の見方が変わっていましたから、幼稚園に行くと、周りの子供と話が合わず、行く先々でイジメに会ったようです。

自家中毒でしたから、精神的に受け入れてもらえる場所がない、と感じていたのでしょう。全くバチ当たりなヤツでしたね。でも確かに私は複雑です。いろいろな障害、つまり才能がありましたから、簡単に分かられても実は嫌なんですね。^_^

不思議なことに、兄弟がいない1人っ子でしたから、イジメの存在自体に気がつかず、いつの間にかイジメ相手と仲良しになっておりました。

その間は我慢しながら、なんで自分が受け入れられないか?を考える、そんな毎日でした。答えを見つけられず、オトナになりました。

小さい頃はまだ良かったのですが、オトナになってヨーロッパから帰国すると日本中で一斉にイジメに会ったため(コレにはさすがに気が付きました)、原因を考えているうちに、また例のごとく、いつの間にか仲間が出来ました。

極めて運の良い人生だと思います。助けてくれた仲間には本当に感謝しています。

私が気が付くために起きた様々なこう言った問題も、実は自分の責任。自身の本質を見抜くことができず、目の前で天から与えられた試練という形で、毎回同じ練習問題を解けずに、繰り返していたのです。

よく考えて見ると、皆が不完全で「変態」なんです。

だから互いにゴツゴツした部分を上手く「あるがまま」に受け入れる技術や、違いをそのまま人生に活かす考え方が必要だと思います。

ゴツゴツした部分は社会にいわゆる「空きスペース」を生み出します。それは埋めちゃいけないと思います。日本社会はこれを埋めちゃうんだと思います。ヨーロッパは空きスペースを確保することが、社会の基本感覚にあるように思います。これ、大切です。

私は自分の才能を病気だと思うことが多く、引きこもりのエネルギーとは紙一重であることに気づいています。

エネルギー的には、多くの才能とは極めて強い衝動であり、(これはフロイトの受け売りじゃなく、実際の感覚から得た経験値です。)「破壊的」なものから「Pacificなもの」、「キラキラ」などいろいろでありますが、誰もが自分では気づいていないように思います。

そういった個々人の障害(つまり才能)に気づかせてくれるのが、社会であり、人生であろうと思います。

周りは全てが自分の考えた思いの鏡であり、つまり全ての存在が一つに繋がりを持っているワケです。

更に言うなら、才能(障害)とは磨く(克服する)ものです。

自分の才能に気づいて見ると、それは苦しいんです。発展を余儀なくされ、努力を強いられます。でも超えられるから与えられるのが、才能なのです。

もちろん才能には社会的な責任が生じます。自分だけのものではなく、「みんなのもの」だからです。

つまり障害には社会的責任が伴うのです。

繰り返しますが、障害とは才能なのです。「障害を持って生まれて来た彼ら」の中にある凝縮した、いやもっと言うなら凝固した才能は、温めて解凍してから、慎重に扱い育てる必要があります。

何故なら「障害を持って生まれて来た彼ら」は、実は私たちの宝ものなのです。

彼らは私たちが気づいていない世界にアクセス出来ます。知らない世界を、彼らを通じて見ることになります。

でも誤解しないでください。これを読んでいるあなたが、実はその「彼ら」であり障害者なのです。

自分の持つ問題や障害を克服するために、つまり自分の持つ才能を発現するために、この世に生まれてきたのです。

それは外的なものもあれば、内的な障害、隠されたものもあるでしょう。人間は誰しも不完全です。

自分の持つ障害に気付き、それを克服して幸せを感じること。そうすると、やがて「全てが一つに繋がる」ことに気付くことが出来ます。

私は21世紀の日本人が、数多の災害を経て、たくさんの気付きを得たと感じています。

世界の意識レベルの上昇に、これから日本と日本人が極めて大きな貢献をすることになります。

そのために必要な道とは、自分自身の障害、つまり才能に気付くことだと確信しています。

年末ヨーロッパへの途上、機内で読んだ旺季志ずかさんの「臆病な僕…」と言う本。

私の人生観とあまりに合う内容で、本当にビックリさせられました。読み終えて、思わずガッツポーズしてました。^_^

横浜の自宅から

皆様に素晴らしい人生が

2017年訪れると確信して

今年もよろしくご指導賜りますよう。

村中大祐

年の瀬に思うこと – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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皆様、お元気でいらっしゃいますか?

自分の周りに居る人が、自分と似てないなー、と思ったら、それは自分が自分らしくない時の赤信号。

お気をつけくださいね。

そんなことが分かるようになったなんて。。。

でも33歳の私は一向に年を取る気配がありません。

頭の中は音楽があまりにも具体的に流れているからか、髪の毛の伸びの速さが尋常ではないとか。

音楽は身体に良い、というのはどうやら本当のようです。

でも33歳はちょっと言い過ぎか。

奥さんに怒られそうですね。(笑)

さて、最近自分の周りには「目に見えない」世界を司る人達ばかりがお集まり頂けるようになりました。

それが良いか悪いかは皆様にお任せしますが、

私的にはようやく自分の本当に在りたい姿を、

世間様に向かって表現できるようになった、ということの証だと思っております。

しばらくヨーロッパで放浪し、日本に帰ってきたときのことは、今でもありありと思いだされますが、

当時、周りの方が「目に見えるものだけしか信じていない」という事実には、正直かなりショックを受けました。

私が音楽を仕事にする上で、一番大切な核となる部分とは、「目に見えない世界を表現すること」だったからです。

そのために捨てたものも沢山あったはずなのですが、日本と言う国には、当時なかなか思うように自分らしくは居させてくれない空気感がありました。

何をするにも、厳しい環境です。競争も人一倍厳しく、皆が優秀なだけに、生き残るのは大変です。それはどの分野でも同じだと思います。

私は小さい頃から本質を見ることが当たり前で、誰もが同じことをするものだ、と信じておりました。

イタリア人は割合このような私の存在をそのまま愛してくれましたが、日本で当時私の周囲に居て下さった人達は、私の語る言葉の表の意味しか受け取らない方が、今考えてみると多かったように思います。

彼らに囲まれていた理由とは、実は私がまだ未熟で、自分の本来望む方向性を打出していなかったから、なのですね。

類は友を呼ぶ。やりたいことが何か?自分が分かって打ち出したとき、初めてそれに見合った環境や人が引き寄せられることを痛感しました。

新しい年の幕開けにあたり、自分の再確認ができて非常に嬉しく思います。

私たちの演奏会やイヴェントに今年、お忙しい中を足を運んでくださった皆様。ご協力やご尽力を下さった方々。

本当にこの一年お世話になりました。

皆さまには「目には見えないけれど、耳をすますと見えてくる世界観」を益々楽しんで頂くために、今後更なる精進を重ねて参ります。

来年も何卒よろしくお願い申し上げます。

宇宙年 吉日              村中大祐

漆原朝子さんのこと。 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

あるヴァイオリニストに出会った。
その人は多くを語らない。
ただ音楽をするのみ。

そこに立ってひたすら音を追う姿に心を打たれた。

ほとんど話すこともなかったけれど、多くを学んだ気がする。

Exhibitionに走る音楽が多いなかで、
その人は立ち姿ですでに人を魅了する力を得ていた。

純粋さ。

正しさ。

そして強さ。

その強さはけっして人に主張されるものではなく、
自分の中だけに、ひっそりとしまってある。

でもその強さから優しさや愛が滲み出てくる。

そんな立ち居振る舞いに、舞台袖から拍手を送り続けていた。

すごいひともいるものだ。