コスモポリタンの勧め⑫「言葉は行動よりも強し」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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From:村中大祐

私の最初の外国体験は20歳前後の頃のこと。
ウィーンという街に夏の3週間を過ごした。

もちろん最初の体験だから
言葉もわからず、
見るもの、感じること、
そのすべては「違い」にフォーカスされる。

今思うと当時の自分のなかで
ウィーンという街を見た最初の印象は
以下の2点に集約されるように思う。

1.街がバロック(ロックではない)で違和感。
2.マネキンが獣に見える。

この2つ。
街の空気感には昔から敏感だったとは思わないが
ウィーンの独特の空気を感じた若い魂は
そのそっけなさと、無機質を
「日本の方が優れている」と思った。

そして「そっけなさと無機質」の理由は
バロック様式の建物からくる部分もあるのではないか、
と思ったりもしたが、これは行ってみた方なら
ひょっとすると理解できるかもしれない。
(多くの方はウィーンを「美しい」と表現するが
私は美しいとは思わないから、感じ方も千差万別だが。)

マネキンについては、
ショーウィンドウにおいてある女性の人形が
「ああ、これがウィーンの女性か」と
思わせるものだった。

実際にお店に入ったときに感じる応対は
女性がひどく男性的で、
「お前、ここに何しに来たんだ!」
と言わんばかりの言葉遣いでやって来る。

これで物が売れるのか?と
本気で感じる毎日だった。

そのくらい人間が発する言葉の乱暴さは
強烈にこころに残る。

他の国ではその後もあまり感じたことのない
不思議に「高圧的」とも言える言葉遣い。

その背後にある彼らの持つ意識を
思わず考えさせられた。

ウィーンという街は古くは
オーストリア・ハンガリー二重帝国の
栄華を極めたとは言え

現在は何とはなしに田舎くさい
街としての印象は拭い去れない。

そんな場所でプライド高く生きるのが
彼らの今を支えているのかもしれない。

「わたしたちは音楽の都、そしてヨーロッパの中心」
そんな意識かもしれない。
それがウィーンの中に「私が」感じた第一印象。

でも素晴らしい体験もある。

当時ウィーン市内の公園で
ある日疲れをいやすために音楽を聴きながら
ぼーっとしていたら

どうやら財布を落としていたらしく
後から気づいて警察に行くと
ちゃんと自分の財布が届いていた。

中身は何も触られていない。
そんな体験もあったから
必ずしもネガティブな記憶ばかりではない。

ただ、こういった体験の中で
自分の脳裏に焼き付く思いというのがあって
それはやはり発せられた「言葉」の方が
印象が強いわけだ。

言葉というものは
実際のエピソードよりも印象に残る。

外国に行ってみて
そのことは特に強く感じたことかもしれない。

今日も素敵な一日を!
ヨコハマの自宅から
村中大祐

追伸:
もうすぐニュースレターNo.2が出来上がる。
テーマは「カラヤンの仕事術」。
カラヤンについて語られた証言の多くは
彼が指揮者だけでなく
経営者としても十分にその才能を発揮していたことだ。
多くの人間がカラヤンをリーダーとして
認知していたことは
衆目の一致するところだった。

その彼の仕事の仕方。
交渉の仕方は極めて刺激的で
実は私も、そこから多くを学んできた。

例えばカラヤンがポートレートを
写真家に撮らせる際、気を付けていたことがある。
それは自分の顔を撮る角度だ。

彼は決して気に入らない写真は許可しなかったし、
何より「自分の顔をどちらから撮影するか」
について、舞台の下手から撮影することを
指定してきたという。(顔の左側から撮影することになる)

このエピソードでも思うのは
カラヤンという人間は
自分の弱みや強みを把握しながら
その強みにフォーカスすることを
徹底した人だったということ。

彼から学べることには
アントレプレナーや個人事業者、
そして自分の城を守ろうとする社長たちが
知っていて間違いなく有益なものが多い。

そして何より
マーラー以降の指揮者の系譜から見えてくるのは
カラヤンを起点に
カラヤン以前とカラヤン以降で
リーダーの形に大きな変化があったということ。

それは取りも直さず
世界の今後を占う大きなカギともなりうるということ。

指揮者の動向に注目するのもいいが
むしろそこから今後の世界が読み取れる方が
よほど興味深いというもの。

そんなお話を続けていくつもりだ。
創刊号からお読みいただける年間購読には
30名様先着のみ限定で以下の2つの特典が用意されている。

ひとつは年6回の購読が6,000円お安くなる話。

もう一つは
村中大祐指揮Orchester AfiAの第一回演奏会のCD-Rが
プレゼントされるということ。
こちらはAfiAでは5000円で販売しているもの。
その記念すべき浜離宮朝日ホールでの公演ライブ録音を
年間購読の方に特別にプレゼントする企画。

詳細・お申込みはこちら↓から。
https://spike.cc/shop/user_956153619/products/Swfse5oJ

別売りはこちら↓からどうぞ。
https://spike.cc/shop/user_956153619/products/vuMVP1KS

コスモポリタンの勧め⑪「宇宙とつながる」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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From:村中大祐

その昔、留学中のウィーンではよく
映画のレイトショーを友人の
オランダ人&ドイツ人のカップルと一緒に
観に行ったものだ。

ウィーンでは年に一度、
Wiener Bal「ヴィーナー・バル」と言って
舞踏会のシーズンが始まると
皆がこぞってウィンナーワルツを踊るために
2週間か3週間、付け焼刃なのだが
ワルツを踊る手ほどきを受けに
上手な友人宅に集まったりする。

みんながそんな時期は
どういうわけか
そわそわし始める。

それもまた楽し。

そこで知り合ったのが
オランダから来たアントロポロゾフ
(つまりシュタイナー学校教師)のヨハンネスと
ベルリン出身のコルポテラポイト(身体テレピスト)の
エレナのカップルだった。

互いにウィンナー・ワルツを踊るのが下手で
互いの下手さを笑いながら
段々と仲間になった覚えがある。

それから私たちは
よく一緒に映画を観に行く友人になった。

当時オーストリア放送協会ORFのテレビでは
ゴールデン・タイムともなれば
ドイツ生まれの「ハリボ」という駄菓子が
スター芸人によって大々的に宣伝され

私たちも、どちらかと言えばポップコーンより
ガムのようなハリボを食べながら
映画を観るのが習わしとなった。

ウィーンでは
ご存じの方も多いだろうが
街の映画館というのは
普通に昔の劇場、つまり演劇の舞台を改装して
映画館にすることが多かったから
それはもうある意味
映画を映画館で観るというのが贅沢に感じた。

そして観劇が終わると
街に繰り出し
旨いビールを片手に
ヴィーナー・シュニッツエルを食べる。

それが私の週末の友人たちとの過ごし方だったように思う。

そこでヨハンネスが教えてくれる
シュタイナー学校の意義や
ルドルフ・シュタイナーの「神智学」についての
さまざまな話を聞きながら
「ああ、こういう考え方を持ったヨーロッパ人が
歴史上に存在したんだ。」と感慨もひとしおだった。

昨夜レイトショーで
久しぶりにヨーロッパで観るような
素敵な映画を観た。

別にハリウッド映画だから
ヨーロッパはどうでもいいのだけれど。

でもウィーンを思い出すほどの
素敵な映画だった。
「メッセージ」という邦題。

ある女性言語学者が
宇宙から来た異星人の言葉を解読し
彼らとコミュニケーションをとって
地球を救う物語。

そこに掲げられたテーマは
共時性、時間の概念
引き寄せの法則
世界はひとつ
宇宙はひとつで互いに関係し合い
新たな叡智を互いに共有し合うということ。

人間の脳は
その大部分がまだつかわれずにいる、
というのが通説だが

ひょっとすると
それは時間の概念が
私たちを縛るからなのかもしれない。

そんなことを考えさせられた。

今世界で起きている出来事は
世界というか宇宙が本当の意味で
つながりを得ていくための
プロセスのような気がする。

そんなとき、多言語を知る、ということは
発想や現実をブレークスルーしていくのに
とっても有効であることを
暗に教えてくれる映画となった。

ロードショー公開しているので
お近くの映画館でどうぞ。

素敵な一日を!
ヨコハマの自宅から
村中大祐

追伸:
もうすぐニュースレターNo.2が出来上がる。
テーマは「カラヤンの仕事術」。
カラヤンについて語られた証言の多くは
彼が指揮者だけでなく
経営者としても十分にその才能を発揮していたことだ。
多くの人間がカラヤンをリーダーとして
認知していたことは
衆目の一致するところだった。

その彼の仕事の仕方。
交渉の仕方は極めて刺激的で
実は私も、そこから多くを学んできた。

例えばカラヤンがポートレートを
写真家に撮らせる際、気を付けていたことがある。
それは自分の顔を撮る角度だ。

彼は決して気に入らない写真は許可しなかったし、
何より「自分の顔をどちらから撮影するか」
について、舞台の下手から撮影することを
指定してきたという。(顔の左側から撮影することになる)

このエピソードでも思うのは
カラヤンという人間は
自分の弱みや強みを把握しながら
その強みにフォーカスすることを
徹底した人だったということ。

彼から学べることには
アントレプレナーや個人事業者、
そして自分の城を守ろうとする社長たちが
知っていて間違いなく有益なものが多い。

そして何より
マーラー以降の指揮者の系譜から見えてくるのは
カラヤンを起点に
カラヤン以前とカラヤン以降で
リーダーの形に大きな変化があったということ。

それは取りも直さず
世界の今後を占う大きなカギともなりうるということ。

指揮者の動向に注目するのもいいが
むしろそこから今後の世界が読み取れる方が
よほど興味深いというもの。

そんなお話を続けていくつもりだ。
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コスモポリタンの勧め⑩「Quo Vadis 敬語の意識からの回答」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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From:村中大祐

オーストリアの首都ウィーンには
今はどうか知らないが、昔から
Wien Mitte(中央駅)やSued Bahnhof(南駅)、
そしてWest Bahnhof(西駅)があって

私が住んでいた場所は16区のBrunnen Marktのすぐ傍、
Grundstein(礎石)通りだったから
西駅が一番近かった。

この西駅のほど近いところに
Happy Buddha(ハッピー・ブッダ)という
中華料理屋さんがあって、
そこによく通っていた記憶がある。

給仕たちは、皆いわゆる華僑の人たちだったが
ドイツ語で会話がある程度できたため
私たち日本人とは英語かドイツ語で会話していた。

中にはかなりドイツ語が達者な人もいて
人懐っこくいろいろと尋ねてくる。
「お前はどこから来たか?」
「ここで勉強している学生か?」
なんて会話が必ず始まった。

でも私は当時それをあまり嬉しくは思わなかった。
お金を払って来る客に
顔見知りになるまえから
いきなりドイツ語でDu(お前)と使う彼らに
正直私は驚いたからだ。

ここから一歩外にでれば
ウィーンの人たちは必ず
Sie(敬称のズィー)で話しかけてくる。

このフォーマルな敬称というやつは
自分と相手との距離を必要以上に縮めることなく
ある程度の距離感をとって
身を守る方法なのだと思う。

それを東洋人の兄弟たちは
皆一気に縮めようとするのが
私の気に障った時が多かったように記憶する。

今自戒するなら、私は当時ウィーンの社会の中で
ウィーンの人たちから「私自身が」距離を取られてきた、
ということだと思う。

それは私が日本人でもなく中国でもなく韓国でもなく、
ウィーン人にとって単なる東洋人だからであり、
彼ら中国系の人たちは、逆にアジア人のなかで
分け隔てなく付き合いたかったからこそ
日本から来た客に対しても
仲間意識で敬称でなく略称で話しかけてきたのだと思う。

まあ、何が言いたいのか、と言えば
外国で暮らすと
日本人の中だけで暮らすことを捨ててしまえば
必ずと言っていいほど、こうした
人種の違いや社会の壁とぶつかるものだ。

現地の社会に実は受け入れられないため
多くの企業人・組織人は、海外に居ても
日本人の社会の中で暮らす。
それも選択の一つだと思う。

私にしても、現地の中に入って
言葉を学んで本気で現地の人間と交流しようと
努力はしてみたものの
あがけばあがくほど
彼らは受け入れてくれなかったように思う。

自然体で受け入れてもらえるようになったのは
イタリアに行ってからのことだ。

そんな孤立感のなかで当時感じたのは
日本人であるが故に
東洋人という大きな括りで
自分たちを見ることができないのもまた
ある意味残念な話だということ。

20代前半の私がそう言った意識を
当時持っていたことを考えると
教育ってやつは、とても大事だと思う。

日本人が思っているよりも
中国や韓国の人たちは日本人を
同胞や兄弟のように見ていると思う。

そういう意識が西洋人から「受け入れられない」社会の中で
いやが上にも湧き起ってくる。

今まで長い間、日本人の社会の特殊性について
「なぜだろう?」と思ってきたのだけれど
ある一つの結論にたどり着いたような気がする。

私は昭和の時代に生まれ、
その間割合い長い期間
日本にヒューマニズムを感じていた。

だからイタリアの街を仕事で訪れるようになって
イタリアと自分の知る日本が
酷似している部分を見た気がした。

そういう「日本人」の姿、
ヒューマンな日本人のかたちは
おそらくバブルをもって泡と消えたように思う。

国内の世情も、国際情勢も変化するなかで
島国の意識や教育自体が
すごく変化してきた。

たぶん田中角栄が日中国交正常化をした
あの頃の日本人には
ヒューマニズムがあって
世界の中で「東洋人」という括り方を
大切にできたようにも思う。

だが、今のわたしたちに
その感覚が欠如しているのではないか。

書いてみて、改めてそんな気がしてきた。
たぶんヨーロッパがユーロ圏で守ろうとしているものって
こういうヒューマニズムのコアな部分であるように思う。

だから今アメリカやイギリスといった
アングロ・サクソン系の白人たちが
「自分たちは違う!」と言いたいのは
おそらく弱さの裏返し。

彼らはおそらく弱ってきたのだと思う。
多民族を受け入れる強さがなくなってきた。

それは経済の話じゃないんだ。

ある時期、東洋を取り込んだために
【カオス】Chaosの文化的爛熟期が生まれた。
それは19世紀末のパリなどに代表される。

有名な1870年代パリやウィーンの万国博。
ジャポニズムなどが生まれたあの時期。
ロシア・バレエ団がパリでディアギレフの下
大活躍し、音楽や舞台の革命が起きた。

アフリカの仮面からピカソのキュービズムが生まれ
そこからダダイズムやシュールレアリズムが出来上がった。

でもその間にあったのは世界的な混乱と混沌。
社会の意識が乱れて
The age of Anxietyが生まれた。

今の私たちの生活は「つながる」生活。
そこから離れたい人たちは
「つながれない不安」から
SNSを手離せない。

世界全体が連動して動き出そうとする中で
「あの頃に戻りたい」感覚がある。

「どの頃に戻りたいのか?」
自分でもわからないのだと思う。
Quo Vadis
それを探すために
いったん国を閉じたいのかもしれない。

今日も素敵な一日となりますように!
ヨコハマの自宅から
村中大祐

コスモポリタンの勧め⑨「オーダーメイドはいかが?」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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From:村中大祐

最近日本の書店で出版物を見てたまに思うことだが
殆どがオリジナルのものでなく
アメリカの英語で書かれたものからの
焼き直しが多いのに気付く。

それが悪いわけじゃないけれど
英語ができる一握りの人が
自分が読んだり学んできた
アメリカの方法論を

さあ、これから日本の市場に落とし込む
となったときの判断は
わかりやすさ。
シンプルさ。

そして結果的には
情報の総体を示さずに
手短に
要点だけを
わかりやすく
教えてくれる本が売れる!
を実践しているように見える。

そんな本が日本の書店では
今所狭しと並んでいる。
それが別に良いとか悪いではなく

この傾向を追いかけていくと
皆が同じ方法で同じことを求め、
仮に自分がオーダー・メイドの方法論を
「自分のちからで」構築したい
と思っても、少ない情報量では
その実現が難しくなってしまう。

よく「情報操作がされている」
という言葉を耳にするが、
そう思うなら情報を集めればいい。

情報を集めるとき
私なら同じサブジェクト(対象)について
まず全ての本をチェックする。

その時に1冊でも英語で書かれた本があると
違う視点が得られていいかもしれない。

彼らの情報量や視点は我々日本人より
場合によっては
圧倒的に情報量が多い場合もあるからだ。

私の場合は
英語の本を日本語訳で読む場合も多いが
たいてい訳本というのは
日本語がまどろっこしくなって
どこを読んだらよいか
パッとつかめなくなるので、
私の場合日本語訳は速読で
無駄な日本語をすっ飛ばして読むことにしている。

でも翻訳がある場合ばかりではないので、
新しい分野やアイディアを必要とする場合には
英語でオリジナルの考えに触れることにしている。

私は指揮者だから作曲家についての本が多い。
今これを書いている後ろには書棚があって、
その中にはたとえば
マーラーについての本は何と50冊くらいある。
(自分でもびっくり!)
これまでマーラーの本はたくさん刊行されているが
でもマーラーについて書かれた本のなかで
自分の一番役立ったのは
イタリア語で書かれたマーラー本。

意外に思われるかもしれないが
イタリア人の音楽史家、研究家のレベルは世界的で
マーラーについての書物は一番総合的な視点から
書かれているように思う。

ドイツ語のものはどちらかと言えば、
マーラー本人の手紙や家族・友人の手紙などが貴重で
これは翻訳で読むより、本人の言葉で読むと
感慨深いものがある。
ドイツ語で書かれた評伝のようなものは
ごく一般的なレベルだから、英語の評伝を読めば良い。

そうやって情報が集まってくると
自分なりのマーラー像が見えてくる。
つまり情報量には絶対的に価値があるということ。

一つの言語に頼ると、見方が偏りやすくなる。
そうなったら、国際的なオリジナリティや競争力、
あるいは自分独自のものの観方は
残念ながら見いだせないかもしれない。

私の場合は本以外にもいろいろな情報の取り方があって
例えば同じウィキペディアでも、
一つの主題について
最低4か国語で読むことになる。

でも実を言うと、3つも4つも言語ができる必要はない。
大抵の場合、英語とイタリア語が同じだったりするわけ。
ドイツ語より日本語が詳しかったりする。

だから何はともあれ、情報量を増やせるシステムを
自分なりに持てれば
そこからオーダー・メイドの
自分に合った答えが導きだせるというわけだ。

今日も素敵な一日を!

ヨコハマの自宅より
村中大祐

コスモポリタンの勧め⑧「思いつくまま。脱線の巻」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

From:村中大祐
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ロレンツォ・ダ・ポンテというイタリア人は、モーツァルトの名作三部作の「フィガロ」「コジ」「ドン・ジョヴァンニ」の脚本家だが、前回、この「ドン・ジョヴァンニ」がモーツァルトの手にかかってオペラになると、まるで悲劇の最高傑作のように見えてくることはお話しした通りだ。

この3部作を昔から、「Commedia dell’Arteコメディア・デル・アルテ」として「コメディ」と見る風習があるのは、ご存じのとおり。

でも、このモーツァルトの3部作は、フランスの「コメディ・フランセーズ」かというと、まあ「フィガロ」という素材がもともと「セヴィリアの理髪師」の原作者、ボーマルシェの手によるもので、原作がフランス語だから、ということや、その主題がちょうどフランス革命のイデオロギーと密接に結びついていることから、「フランス的」影響をダ・ポンテ・モーツァルトの中に見ようとするわけだ。

でも実を言うと、このコメディア・デル・アルテはコメディ・フランセーズと結びつくところもないわけではないが、起源が完全にイタリアであり、しかもダ・ポンテの出身地ヴェネト州に近いヴェネツィアのゴルドーニという作家がきわめて大きな影響を与えている。ゴルドーニこそが「コメディア・デル・アルテ」という言葉を最初に使った人物なのだ。

ちなみにこのコメディアCommediaの意味は深くて、日本語に訳すことなどできない。ダンテの「神曲」が、Divina Commediaという「神聖なコメディア」という原題であって、中世から使われている。

デル・アルテはDell’Arteと書くが、このArteには2つの意味があって、
1.芸術作品みたいな意味合い
2.プロフェッショナル
の2つのうち、第2の意味なわけだ。

つまり広場で行われる寸劇は「素人」ではなく、「プロ」が行う劇となる。そして歴史的に見れば、そこにナポリの仮面劇が取り込まれて、そこにはプルチネッラやスカラムーシュといった男8人、女2人の仮面集団が、カーニヴァルの時期にヴェネツィアの広場で演じる即興劇となる。ゴルドーニはこれを台本化して、本来台本がないものをヴェネツィア方言で書き残した。(厳密に書くと大変なので、かなり歴史は前後するが、こんな感じだ。女性が16世紀のローマで既に契約書にサインしてあるドキュメントがあるのも興味深い。)

昔から即興劇だったわけで、そうなるとかなり技術というか、能力の高い人たち、エリート集団が、しゃべりと音楽を同時にこなしたわけで、貴族の間の娯楽だったのだろうが、いつのころからか、民間でも行われるようになる。その辺はイギリスのシェイクスピアの戯曲などの歴史の変遷も見てみると面白いだろう。因みにフランスやドイツは宮廷で行われるのが一般的で、日本も楽市楽座ができた信長の時代に能や狂言が生まれているのと時期は一緒。同じ16世紀の話だ。東洋と西洋で不思議な一致がある。

ナポリ発の仮面劇など、暗くメランコリックで、同時に自虐的な部分が醸し出される感覚は、コメディアをコメディとする日本人に馴染まないように思うかもしれないが、同じ16世紀に出てきた狂言を観るかぎりでは、世相を皮肉る表現や自虐性などの共通点があって、日本人の古来の文化に、どちらかと言うと近いのではないか。

仮面を使うところも同じなら、これもまた東洋と西洋の間において、不思議な一致をみることになる。

私がヨコハマでミヒャエル・ハンペ氏と共にダ・ポンテのオペラを中心としたモーツァルト上演を始めたとき、最初のオープニングコンサートで演奏したのは、まさにナポリのペルゴレージの音楽をストラヴィンスキーが組み替えた作品、「プルチネッラ」全曲を上演した。ロシア・バレエ団のディアギレフからの依頼に基づき、音楽はストラヴィンスキー、舞台はあのパブロ・ピカソが受け持って、この仮面劇を上演したので、同年に予定されていた「コジ・ファン・トウッテ」の前座には、もってこいの作品と判断した。

ピカソがアフリカの「仮面」からキュービズムを生み出す話など、一致点も見いだされて面白いのだが、長くなるのでやめておく。
素敵な週末を!

ヨコハマの自宅より
村中大祐

コスモポリタンの勧め⑦「喜劇?それとも悲劇?」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

From:村中大祐

私がウィーンの音大指揮科に入学したての頃
出された課題の中にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」があった。その頃はまだカラヤンが他界して間もなかった頃で、
ザルツブルク音楽祭でカラヤンが演出と指揮をした同オペラの映像が
ソニーの力を借りて世界中に流布されていた。カラヤンは御年80歳近く、「まさにデモーニシュなモーツァルトの世界を体現した」名演奏として音楽ファンの関心事になったと記憶する。

当時まだスコアもろくに読めない私は、課題として出されたこの名作オペラの最初ですでに躓いていた。

何故なら勉強用のボーカルスコア(歌手とピアノ伴奏のために書かれた楽譜)には、「Don Giovanni Heiteres Drama/KV 527」とあったからだ。
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ドイツ語のheiterという形容詞は「明るい、気持ち良い」といった意味で日常的に使うし、天気を示す場合は「晴れ」を意味する。従って「明るく晴れ晴れしたドラマ」という直訳になる。

イタリア語で書く場合は「Don Giovanni ossia Il dissoluto punito
Dramma giocoso in due atti KV527」となるのだが、訳するなら「ドン・ジョヴァンニ、或いは罰せられた放蕩者。二幕の喜劇KV527」となるだろうか。

そりゃあ、確かに最初のレポレッロの出だしなどは喜劇とも言えるだろうけれど、私に言わせればいきなりニ短調で序曲が始まると、もうそれはモーツァルトのニ短調で、レクイエムに同じ。

そうなれば喜劇と言えるかどうか。
最終的に放蕩者を地獄に追いやって幕を閉じるが
このオペラの底流に流れるニ短調は
その地獄のシーンで最高潮に達すると
もうイメージは悲劇としか受け取れない。

それを「明るく晴れ晴れ」あるいは「喜劇」という形容詞で
描く西洋人の文化とは、いったいどういう感覚なのか!

まあ、これはカルチャーショックだったわけ。

ちなみにこのスコアは140シリング。旧東独のライプツィヒで製造されたブライトコップフ版で、ドイツ語とイタリア語の歌詞がついて、1500円程度。ドブリンガーというウィーンの有名な楽譜屋の中古楽譜の山の中から発見して買い求めたものだ。何となく表紙の色は東独らしいが、あまり内容とは合わない色だ。

この辺りの演劇の悲劇・喜劇のカテゴライズは難しいけれど
コメディア・デル・アルテというものの歴史を見ていくと
だんだんに理解できるわけだ。

元はと言えば仮面劇。その中に含まれた喜劇とも悲劇とも取れない、複雑な文化的側面を感じることによって、「アタマの中では」この疑問は解消されたと思う。

それに、原作というか、ドン・ジョヴァンニを同じく書き残したモリエールの戯曲を見れば、そこにはモーツァルトのあの音楽はないわけだ。

シチリアで嗅ぎタバコを吸うレポレッロならぬズガナレッロが、
「アリストテレスの哲学より嗅ぎタバコの方が素晴らしい」と始まるくだりを見れば、それはもう、喜劇以外の何ものでもないのだろう。

ひょっとしたらモーツァルトは自分の放蕩三昧の生活が、まるでドン・ジョヴァンニと酷似していたため、自分が罰せられるのと同じ気持ちでこのオペラを書いたから、喜劇ならぬ悲劇のニ短調で全体を無意識にまとめあげたのかもしれない。

文化の違い。伝統の違い。
面白いよな。

ヨコハマの自宅から。
村中大祐

コスモポリタンの勧め⑥「本物のコスモポリタンに学べ!」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

From:村中大祐

私の憧れのアーティストは、その昔から今でも変わらず、
ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインだ。

このユダヤ系ポーランド人ピアニストの書いた自叙伝を読むと
何より豊かな「生きた教え」をいただいた気がする。

ルービンシュタインは、誰より優れた能力があった。
それは「フォトグラフィック・メモリー」。

つまり写真のように
ありとあらゆる場面を幼少時から記憶していて、
それをあたかも今起こったことのように
呼び起こすことができる、というところだ。

この能力は「速読」で鍛えることができる、ということらしいが
ルービンシュタインのそれは、ちょっと普通では
考えられない記憶の正確さだ。

今の世ならアスペルガーに分類されるのではないだろうか。

同じくコスモポリタンとして有名なのは
モーツァルトだろう。
彼の手紙を読むと、ありとあらゆる言語で
姉や父、友人に宛てて思いのたけが綴られている。
ある時からロンドン行きを計画して
英語で手紙も書かれたりしているが
これは妻のコンスタンツェが病弱だったことから
断念せざるをえず、代わりにハイドンがロンドンに行って
大成功を収めたことは、
ご存じの方も多いことだろう。

それよりも少し前の時代のコスモポリタンとして
その自叙伝が歴史的な意味を持つ人は
ジャコモ・カサノヴァだ。
これはおそらく日本語に訳されているだろうが
本当に面白い。
画像の説明
私はイタリアの古本市で全巻揃えたが、
全12巻のまさに大作だ。

読書好きの方なら
マルセル・プルースト、
ロジェ・マルタン・ドゥ・ギャールや
エリアス・カネッティの大作を読むのと
同じかそれ以上のエネルギーで
読むように思うかもしれないが

これらの自叙伝は意外に簡単に読めてしまう。
自叙伝とはそういうものだ。

そして、この自叙伝や手紙を読むことは
言葉を学ぶ上でも
楽をして得られるものが多いという意味で
お勧め。

ちなみに自叙伝といえば
他にも劇作家でモーツァルトとウィーンで
ともに3部作を書いたロレンツォ・ダ・ポンテや、
もっと時代を遡ると、
ルネッサンス期のイタリア・フィレンツェで大活躍した
ベンヴェヌート・チェリーニ(彫刻家)の
自叙伝が面白い。

これらは必ず英語に訳されているはずで
英語の勉強をするのにも最適。

ちなみに私はニュースレター執筆のために
当時ウィーンで買ったカラヤンの自叙伝を最近読んでいたけれど
ドイツ語を学ぶなら、こういうのもお勧め。

コスモポリタンだった人たちの
記録をひも解いていけば
例えそれが日本語で読んだとしても
世界は広がるというわけ。

ヨコハマの自宅より
村中大祐

コスモポリタンの勧め⑤「外国語が必要なケースもあるね。」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

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From:村中大祐

オペラを勉強し始めたのは割合に早い時期だったと思う。
そもそも最初はピアノを弾きながら
全部の役を歌うことから訓練を始めたけれど、
それがLa Bohemeだったかな。

ロドルフォが歌う
Nei cieli bigi gurado fumar
dai mille comignoli Parigi
って始まる歌詞で、
bigiなんて使わないわけ。
本来grigiであってbigiとは
日常会話で言わないの。

って言うか、ドイツ語学科だったし、
英語が基本だからイタリア語なんてわからないんだよね。
プッチーニのスコア開けると
いきなりイタリア語でト書きが書いてあって。
「これやるんか?」と思ったわけ。

今ならイタリア語は多分日本人の公式通訳が
褒めてくれるくらいできるから、あまり問題はないけれども、
そもそもオペラを日本人がやるってのは大変なわけ。

指揮者は特に周囲が皆5か国語くらい簡単にできるから、
やらなきゃいけない、ってなるの。
カラヤンもアッバードも、バレンボイムもみんなできる。

最初に指揮の先生だったカール・エーステライヒャーは、
英語ができなかったから国際的なキャリアは築けなかったと、
他界する前の年まで授業でぶつぶつ言っていた。
次にウィーンの国立音大に来たレオポルド・ハーガーって指揮者は、
メトロポリタン歌劇場で当時「ドン・ジョヴァンニ」とか指揮していたけれど、
イタリア語は全然わかっていなくて、
授業でもドンナ・アンナのセリフの読み方が全然違っていた。
ルービンシュタインはその自叙伝で、
ポーランドにロシアが侵攻した「お蔭」でロシア語が義務付けられたから、
ロシア語ができるようになった、と回想しているし。
そんなもんなんだよね。

つまり言葉はオペラをやる手段だからできて当たり前で、
できないと絶対的ハンディと考えるわけ。
ここで目の前の言葉がわからないと
どうしたって自己矛盾が起きてくる。
自信を失いかねない。
「これで俺はやっていけるのだろうか?」
そう思うのは当然だと思う。
少なくとも僕の場合はそうだった。
最初に開けたボエームのスコアは
それはもう恐怖だった。
書いてあることの意味がわからないままやるって、大変なわけだ。
自分ひとりならまだしも、それを人と共有しなければならない仕事だけに
歌手が全員前に並んで、その中にイタリア語ができる人がいたら
ましてや全員がイタリア人だったら
貴方はわからないままに
どうやって稽古をする?

それでも「音楽があればオペラはできる」って言うけれども、
絶対的に無理な個所がたくさん出てくる。
 ではどこまでできたら、「これでいい!」ってのがあるのか?
って言うと、「これでいい!」ってのが
音楽と同じで、ある訳ないから困るのね。

どこまで行っても「俺はできない」みたいになると、
それはもうそれで可愛そうなの。
一生の後悔、みたいな感じになっちゃう。

でも「ある程度」できるようになると、楽しいわけ。
書いてあることが全部理解できる程度にスコアなんかが読めると、
今度はそこから色々なことを想像できるから、
豊かな解釈は生まれてくるものなの。

だから音楽家はみんな言葉をできるように努力して来たんだよね。
豊かさの象徴だから。
多言語を使えるようにするということは。
だから本気で取り組むつもりがないなら、
「俺には必要ない!」として切り捨てれば良い。
でもある部分を知らないまま
その後を生き抜いて行くことになることは、覚悟して。
それも決断だから。そうやっている人も沢山いるし。
人生の選択だよね。

僕はルービンシュタインやカラヤンの生き方に憧れたから、
そうなろうと思って努力したの。
だからできるようになった。
物凄い時間と労力、お金をかけて。
大抵みんながコンプレックス持っている話題だから、
長い間書くことをあまりしなかった。
でも伝える義務を感じるようになったから、書くことにした。

大きなお世話と言いたい人もいるだろうけれど
あくまで手段だからね。言葉は。
表現の目的でないことは覚えておいて。

横浜の自宅から
村中大祐
 

コスモポリタンの勧め④「自分に合った鏡とは?」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

From: 村中大祐

私は音楽家になるためにドイツ語を学んだが
それはそれは、大変なプロセスだった。

祖母が柳兼子師、母が笹田和子氏、佐々木成子氏に師事したお蔭で
音楽をやる、と決めた段階で相談したのが
母の師の佐々木成子師だったのは幸運だった。
画像の説明

佐々木成子師はこの5月に98歳の誕生日を待たずして大往生されたが、母が最初に連れて行ったのは、ドイツ歌曲を広めた貢献から、オーストリア政府から日本人で最初に勲章を授与された、この佐々木先生だった。

駿台予備校で名物英語教師だった奥井さんの夏期講習の最終日、
「男は好きなことをやるべきだ」とつぶやかれたその日の晩に
帰宅して母の前で土下座をしていたのは今でも記憶に残っている。
困った母は佐々木先生に相談したわけだ。

「だいちゃん、あなたドイツ語やりなさい。ピアニストで行くのは大変だけど、サヴァリッシュみたいに指揮者になったらいいじゃないの。」

確かに今思えば理に適っていると思うが、本人との相性ってものが語学にはあるのだ。ドイツ語は正直言って、外語大在学中、何度も選んだことを悔やんだ言語だった。

問題はいくつもあると思うが、私がもし自分で言語を選ぶとしたなら、おそらくドイツ語は選ばなかったような気がする。そのことについて、今思うと佐々木先生に相談したのは正解だった。

在学中フランス語やイタリア語、ポルトガル語の雰囲気を味わってみると、自分がいかにラテンの言葉に惹かれるかがよくわかって、正直悩んだことがある。

「関西人がここで何しとるんや」

そう思いながら、ひたすら難しいドイツ語を学ぶふりをしながら、
蝶よ花よとなりそうなフランス語の授業に出没していた。私はドイツ語の専攻の授業を欠席して、フランス語の授業に出席していたのだ。そういうおおらかな雰囲気が、当時の巣鴨にほど近い西ヶ原の校舎にはあったように思う。

総括するなら、英語は公用語のように世界中で使われる。だが、ビジネスチャンスを考えると、多くの人たちと競う覚悟が必要。比較されるのがいやなら、別の言語をあたること。海外に出るつもりなら、できた方が良いだろう。結果的に英語を使うことは多いはず。

でも英語が苦手な場合もあると思う。その時は自分と相性の良い言語を探すとよい。前回も書いたが、言葉は自分の鏡。よき鏡を得ることの方が重要であって、周囲と同じ鏡では、自分の顔がぼやけることもある。そのときに自分に合った鏡を持つことは、大きなビジネスチャンスにつながるし、自信にもつながる。人と違う鏡なら、社会的な価値も上昇するというもの。

自分に合った鏡を持つ。これ大事。

ヨコハマの自宅より    
村中大祐

追伸:私のドイツ語は外語大在学中はまったくお粗末なもので、文法がある程度できた程度だったように思う。結果的にはウィーン留学の中で「外語ドイツ語卒業」という十字架を背負いながら、何とか本格的にできるようになった、というのが実際のところ。
従ってある意味私のウィーンでのミッションは、音大の指揮科に入学して指揮者として職業訓練をすることの他に、ドイツ語ができるようになることが含まれていたと思う。それこそ必死で身に着けた。でもその「必要」に迫られなければ、ずぼらな私がドイツ語なんて…相性は大事だ。

コスモポリタンの勧め③「言葉は自分の鏡」 – Muranplanet – 指揮者村中大祐 Daisuke Muranaka Official Website

画像の説明
私の夢はその昔、ヨーロッパの人たちと同じ土俵で、
もっと言えば「できる限り」同じ条件で音楽を感じることが
できるようになりたい、ということだった。

もちろん20歳を過ぎるまで一度も外国に出たことのなかった
純粋な日本人だったわけで

普段から日本人全体が抱えている「外国への憧れ」が生み出す根拠のない話、たとえば
「外国は素晴らしくて日本はどうしても劣る」
「外国人は格好いいが日本人は手足が短い」
「外国のものは優れているが、日本のものは焼き直しばかり」
みたいな一般論は当然耳に入って洗脳されていた。

確かに高度成長の時代を見れば、日本のものが優れていたとは
お世辞にも言えない場合もあったかもしれない。
でも今の日本を見る限りにおいて、そういった感は全くと言ってよいほどにない。

でも例えば東芝やシャープといった、絶対に潰れるわけがないと思っていた大企業が破たんをきたしている事実を考えたとき
私の目には、その背後に「外国に対する不当なまでの劣等感」が生み出す何か、があるような気がしてならなかったのだ。

Japan Originalという考え方。
自分のなかからInside Outして作り出すルールだったり
基準だったり。そういったものがないと、いつまでも
他者のルールで相撲をとらされることになる。

私は大きな破たんをきたした2大企業のなかに、
昭和から引き継いだ「外国への劣等感」が
しっかり残っていたのが、一番大きな原因のような気がした。

外国語の取り扱い。
私は普段から5か国語を毎日のように使う仕事のため
この問題と向き合わざるを得なかった。

習得するのに時間とお金、ものすごい努力をしたはずだが
そこで出てきた答えのひとつは
「外国語を使う」=「違った視点を学ぶ」
なのだが、それはつまるところ

外国の人たちに、私たちの鏡になってもらう

ということだったように思う。
やればやるほど、自分に答えを求められる。
外国語の習得とはそのようなもの。
自分の中に答えを見つけざるを得なくなる。

つまり「自分を知る」「日本を知る」ことにつながるわけだ。

音楽家のアタマとは、結局そういったもので
音楽さえ、自分の鏡であり
自分や自分たちを知る鏡と
毎日向き合っているワケ。

異文化を受け入れることは
そういった「自分と違う」鏡に
自分を映してみて

自分の姿をはっきりとそこに確認する作業。
外国語を「使う」というのは
そういうことのような気がする。

そして更に言うなら
仕事や勉強といったすべての事柄も
鏡として存在する。

仕事に精進したり、勉強を深めたりする行為は
自分を映しだす鏡を磨くこと。

素敵な一日を!
ヨコハマの自宅より
村中大祐