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From:村中大祐

日本人の自分にとって
故郷の日本がアウェイ?

Away?異国?

音とは寄り添うものだと思ってきた。
音はずらすものだと思ってきた。

でも音は寄り添わず
音はぴっちりキッカリ合わせる。

それが日本の姿だ。

響きというものがある。
そもそも響きとはなんぞや?

日本人が思うのは
「皆が一緒だと美しい響き」

一緒とはなんぞや?
。。。。

これは強さとは何か?という
自分の幼い頃からの問いと重なって来る。

本当の強さとは?
私の青春期は常にこの問いとともにあった。

竹のようにしなう強さ。
そう形容する知り合いの建築家もいた。

だが本当の強さと私が感じたのは
というか
私にとっての本当の強さとは
「やさしさ」だった。

私は日本の交響楽団の音を
初めて前に立った瞬間
やさしいとは思わなかった。

それは社会の縮図だった。
オーケストラとは
社会の鏡である。

日本の聴衆は音楽に何を求めて
演奏会を聴きにくるのか?

私はコンサートゴーアーだった一人として
はっきりと断言したいのだが

多分自分の位置を確かめに
皆音楽会にやって来るのだと思う。

自分の価値観、自分の社会でのポジション、
自分の思っていること、自分のやっていること、

そういったもろもろの全ての
自分の思いや自分の所有や自分の所属意識が

つまりこの国、日本に居て
自分が所有する価値観が
「間違っていない」ことを確かめに
みな音楽会にやってくる。

音楽会場には日本の社会の縮図があり
日本社会が発すると同じ音が発せられる。
そして安心するのだ。

つまり「日ごろの自分は間違っていない」
その自己肯定のために音楽を聴く。
(皆がこれと同じではないのは
百も承知で書いている。)

でも海外の交響楽団が来れば
それは別の国の話。
千夜一夜物語を読みながら
夜更けに妄想する国の話。
現実ではないのだ。

外国の音は夢の音。
自分とは関係ない。
きっとそう思いながら
聴いているはず。

きっと日本社会はヒプノティゼ、つまり
催眠状態にあるのだと思う。

それが現実。
だから私がずーーーーーっと外国に居て
外国の音を追いかけていたら

日本のオーケストラの前に立った瞬間
突然何かとんでもないニホン社会の現実に
晒されたと言う訳だ。

ずれない音。
ピッタリ合わせる呼吸。

まるで床屋さんで刈ってもらったときに
ピッチリと角を合わせる髪型のようだった。

でも楽員さんのなかには
それが好きでやっているのではないよ
と言いたげな顔をしている人も居る。

「僕ひとりではこの社会ではどうにもならない」

「だからしょうがないんだ。」

そう言っているうちに
自分も同じ価値観に染まっている。

私はピアノで10代の初めころから
ずーーーっとホロヴィッツの音をずらす技術を
研究してきた。

それはオーケストラの響きを考える上で
本当に役に立った。

でも本当は音をずらす、ということは
響きを作るということは
社会を俯瞰し、社会を見直し、
社会に必要な要素を提供する
非常に大きな武器だった。

その時に私はこれが自分のミッションだと
気が付いた。

でも数人の楽員さんと同じく
私も集団の前の個人として
途方にくれていた。

この集団を、この社会を、この日本を
音でどうやって揺さぶればいいのだろうか。

俺たちはアーティストなのだ。

むかし「芸術は爆発だ!」という人がいた。
これは冗談ではなかった。
私はビートルズでもブルース・スプリングスティーンでも
爆発を感じた。

でも爆発をしてしまうと
本質を見ない人が出てくる。
現象、つまり「表面」しか見ないのが
世の常だからである。

大切なのは芸術が爆発することではなく
つまり「芸術自身」が爆発することではなく

芸術を通じて
芸術が起爆剤となって
社会に「自らを爆発させる」ことなのだと

わたしは思っている。

ドン・キホーテ。
まさにラ・マンチャの男の心境だった。

長く書いたが一瞬の感性で
デビューの時期に捉えた感覚を
言語化できた。
最後までお読み頂き、ありがとう。

遂にできた。
今日はビールだ!

素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

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