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From:村中大祐

「なんでこんなに柔らかい音が出るのか?」

確か東京で20歳になったばかりの頃
スカラ座のオーケストラを聴いた覚えがある。

その時の指揮者はロリン・マゼール。
昨年他界した名指揮者だが
ミラノ・スカラ座管弦楽団と
イタリアオペラの名曲を集めたコンサートを
上野の文化会館で指揮していた。

プッチーニの「マノン・レスコー」の間奏曲。
その時の音の柔らかさに
わたしは驚愕した覚えがある。

それまでベルリンやウィーンの調べを聴いて
見事だとは思いながらも
「音」についてあまりここまで
感激したことはなかった。

ピアニストを目指す私にとっては
「音」そのものが重要であり
それが「魂」にも似たものだったのだ。

ピアニストにとって
「音」は命そのもの。
自分の音がすべてを決めてしまう。

この自分の音が魅力がなければ
誰にも音楽が伝わらない。
言ったら歌手の声と同じ話だ。

ヴァイオリニストも「音」で聴き分けられる。

どういうことかと言えば
誰にでもその人の持つオーラがあるのと同じように
その人が発する「音色」みたいなものがあって

実際に声に出すとか、楽器を演奏すると
「その人だけの」音色になる。

同じ音色は存在しないのは
すなわち
同じ人は居ないということなのだ。

地球は自転していて
地球自体から発せられる音があると聞く。

人は存在するために
その細胞が振動していて
その振動があるから
われわれの目に
その存在が映るということらしい。

振動するからには
微細な音が発せられているわけで
その音ともオーラともわからない
目には見えない領域の「個性」が
歌声や楽器の音と響き合って

それぞれが違う音色を生み出すのではないか?

更には

私たちが暮らしている日常では

どこにいるか?
で温度や湿度からの自分への影響も変わり

何を食べるか?(インプット)
で身体の中から出てくるエネルギーも変わり

何を考えるか?
で今言ったような波動が変わって来る。

どんな言葉を使うか?(アウトプット)
で発せられるエネルギーの質も変わる。

そういった毎日の生活の総仕上げみたいに
舞台で演奏する音には
生き方のすべてが映し出される。

歌手なら
自分の声の振動

自分の細胞の振動

生活圏の振動

インプット

考え方

アウトプット
で声の色が変わる。

楽器奏者なら
「声」が「楽器の音の振動」に変わるわけだ。
この図式はオーケストラになると
さらに複雑怪奇なものと変化するが
こういった掛け算や足し算の総体が

「ひとつの音色」となって演奏の個性となる。

ピアニストが出す、あるいは
ヴァイオリニストが出すたったひとつの音。

その音色でどれだけ
聴衆の心をつかめるのかが
実は勝負の分かれ目となる。

コンクールに優勝したとか
そういったことは
極めて些末な話だと言えるだろう。

幼かったころ
ベルリン・フィルやウィーン・フィル
ロンドン響やパリ管など聴いてみたが
それほど感激もしなかったのは
「音」に魅力がなかったからだ。

集団としての機能性だったり
技術力だったりが一番大事だったのか
「すごい」けれども
「それほど感動」しなかった。

でも例えばバイロイト音楽祭で
ジェームズ・レヴァインというアメリカ人が
メトロポリタン歌劇場からやって来て
ワーグナーの「パルシファル」を指揮すると
オーケストラの「音色」が変わった。
ラジオの前で興奮状態になったのは
私だけではないと思う。

あるいはルーマニア人指揮者の
セルジュ・チェリビダッケが
80年代後半にミュンヘン・フィルを率いて来日し
素晴らしい「音のお風呂」とも言える
ブルックナーの交響曲を演奏した。
この音の輝きを忘れることはないだろう。

そう言った凄さとはまた違った
格別の味わいを魅せたのは

スカラ座のオーケストラが
マノンを弾いた瞬間だった。
最初のヴィオラのソロが始まって
ドキ!っとした。

まるでイヴ・モンタンの声のように
色気があったのだ。

私は完全にやられたのだ。

かつてピアニストのホロヴィッツや
チェリストのロストロポーヴィチの音にも
やられはしたが

こんな色気のある音は
オーケストラという集団からは想像つかないほどに
艶やかな「大人の音」の美しさだった。

後にロンドンで共演したヴィオラのユーリ・バシュメットが
演奏するモーツァルトの「シンフォニア・コンチェルタンテ」にも
同じような色気があった。

音色とはかくもスゴイものなのだ。

私はかつてオペラ嫌いだった、と語ったことがある。
その理由は簡単なことだ。

一人一人の音楽家が妥協しながら
理想を犠牲にしながら
演奏しているように見えて
仕方がないからだ。

自分の音、自分の波動、自分の声、自分のオーラ。

そういったものをなぜ集団のなかで
埋もれさせてしまうのか?

スカラ座のオーケストラだって
いつもいつも素晴らしいわけではない。

だがこちらがドキッとするほど
美しい、ああ、これが音楽だ、と思う瞬間。

それはひとりひとりの音色が
「活かされた」瞬間なのだと思う。

この艶やかさは例えて言うなら
坂口安吾の「桜の森の満開の下」を
初めて読んだときの感触と似ていた。

オーケストラにもこういう音楽ができるんだ。
私の偏狭な見方が変わった瞬間だった。

横浜でオーケストラを作るとなったとき
私のなかには2つのコンセプトがあった。

ひとつはオペラのオーケストラを作るということ。
もうひとつは若い人達と一緒に
新しい価値観を作るということ。

「ひとりひとりが活かされる」プラットフォーム
集団に呑まれることなく
一人の音が自由と個性を感じさせる場の創造。

先に紹介した指揮者のチェリビダッケが
且つてフルトヴェングラーと共に
苦楽を共にしたベルリン・フィルの指揮台に
ベルリンの壁が崩れた後
たった1度だけ立ったことがある。

その時彼がベルリン・フィルに言った言葉は印象的だった。

「オーケストラとは一緒に演奏(zusammenspiel)するものではない。交響曲とは技術力をひけらかす(Virtuosität)ために演奏するものではない。オーケストラのメンバーは、共有する時の中に、他者が何をしているかを聴く。其処で自分のその瞬間の役割を判断する。他者より重要か、そうでないか。音楽が表現できる全てを、時の中に現象化しようとしたのがフルトヴェングラーだ。」

オペラを演奏するオーケストラは
器楽の技術よりも歌手の声に耳を傾けるようになる。
若い奏者たちが集まることで
高いヴァイブレーション(振動・波動)を獲得することができる。

新しいオーケストラを作る上で
私にとって一番大切なことは
この言葉に集約されていたと言える。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

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